<2273>「『さかなのこ』~狂狷の徒たる母子」

 映画『さかなのこ』を観た。9月24日に観た。

 岡田斗司夫さんが紹介していて、気になったので観たのだが、確かに観終わった後ずっと、なんだか分からないけどずーっとざわざわざわざわして、落ち着かない、感動なのか何なのかよく分からないものがあり、私も何にもまとまっていないんだけれども、良かった場面とか気になったことなどを書いてみる。なので、ネタバレがあります。

 

 良かったのは、ヒヨとヒヨの彼女と、ミー坊の3人でディナーをする場面。

 ミー坊がちょっと変わった存在であることを、分かっちゃった、とヒヨの彼女は表現する。でも、その分かり方は、ヒヨとかモモコとかが、小学生の時にミー坊に出会ったばかりぐらいの分かり方で、つまり「こいつは変わったやつ、変なやつ、わけわからん」というのと同じ分かり方で、そこからヒヨなんかは高校生になってまたミー坊に会って、そこでは「ちょっとコイツすごいな」という尊敬がじわじわと入って来て、また大人になってからは、ミー坊がずっとこのままでいることの奇跡を想い、すっかり魅了されている、という段階を経てきている訳で。するとヒヨの彼女の分かっちゃったは、分かっちゃったと言っても2,3段階前くらいの分かり方なんだ、っていうのがすごく印象的だった。ヒヨの彼女はここではすごくヒドいことを言うんだけど、でも、ミー坊のそばで一緒に時間を過ごして来ていたら、ヒヨの彼女も同じように感化されていく経過をたどるのだろうなと思ったり。

 ヒヨ役の柳楽優弥さんのこの場面での、楽しい気分から一気に白けちゃう、彼女に興味がなくなっちゃう一連の表情が見事過ぎて、役者さんというのはとんでもないなと思ったり。他のシーンでも、不良だったのが改心して一生懸命勉強して、学校で成績上位に食い込んで、その張り出された成績を見て思わずオイオイ泣いちゃうっていう、コミカルなんだけれども本気泣きではあるっていう表現も、上手すぎて「おお・・・」となって圧倒されたりした。

 

 後は、モモコが、居場所がなくなって、小さい子供を連れてミー坊のところに来る場面というか一連。

 ミー坊も何にも言わずに受け入れるし、普通に3人でこのまま生活を続けていけそうな気配が漂って、なんならミー坊もすごく楽しそうで、でもモモコはどっかに働きに出てる風もないし、ミー坊もアルバイトみたいな感じだからお金の面ですぐに苦しくなる。 

 ある朝モモコが子供に起こされると、ミー坊の部屋から魚が全くいなくなっている。3人で生活していれば世話を続けていく金もないからだろう。でもミー坊は一生懸命金を稼ごうとしていて、やっぱりどこかこの状況を楽しんでいて、モモコの子どもにプレゼントを買って帰ろうとしたりしている。でもモモコはミー坊から魚を奪っているのが自分であることにハッとして、それだけは絶対にしてはいけないと思ったのか、すぐに子どもを連れてミー坊の家から去る。

 ミー坊のアパートの階段下には、隣の床屋のおじさんが、暇なのかいつも一日中座りっぱなしで、だからミー坊がモモコの子どものためにプレゼントを買って帰って来ても、もうモモコも子どもも出ていったことを当然知っているはずなんだけど、それをミー坊にはなんにも言わない。ただおじさんは怠惰なだけかもしれないけど、「もう居ないよ」とか「出てっちゃったよ」とか、そんなこと一言も言わないのがすごく良かった。なんでかは分からない。すごく良かった。

 

 後は良かったというか、ミー坊もある意味狂気の人なんだけど、それを上回ってミー坊のお母さんの穏やかな狂気がすごかった。

 ギョギョおじさんは、映画を見ている側は、さかなクンだと分かるからコミカルで、笑って見てられるんだけど、映画の中の世界の人にはそんなことは分からない。ただの異常なおじさんにしか見えていないはずだ。

 その、ギョギョおじさんのところに、幼き日のミー坊は遊びに行きたいと言う。近所で評判の異常なおじさんのところへだ。当然父親は反対する。そりゃそうだろう。危ないからだ。

 しかし母親は良いよ、と言う。いや、絶対に良い訳はないのだが、いいよ、と言う。

 父親も何を言っているんだと反対する。

 ミー坊だって行きたいと言った張本人だが若干引いているように見える。

 それでも、母親は穏やかに笑っているだけ。

 狂気度ではミー坊より母親の方が一枚上手なのだ。

 ミー坊の将来を思えば、ギョギョおじさんのもとへ遊びにいくことは必然なのだが、そんなことはリアルタイムでは分かるはずはない。でも母親は良いよ、と言う。ミー坊がやりたいことはどんな状況でも止めないのだ。

 

 それから、幼き日のミー坊が海で巨大ダコを掴まえる場面がある。

 ミー坊はこのタコを家で飼っていいか、と母親に問う。

 良い訳はないが、何故ならタコというだけでもあれだがそれが巨大なのだ。でも良いよ、と言う。ちゃんと飼えるなら良いよ、と言う。

 でもミー坊が飼おうと思って掴まえていたタコはその場で父親によってシメられてしまう。ミー坊は叫んでいるが、母親はやめろともなんとも言わずに、ただ困っているだけだ。ミー坊が飼いたいと言っていたのを聞いているのに。

 でもそれでいいのだ。タコはその場で食っても上手いからだ。

 ミー坊はのち、大きくなっても魚を愛し続けるがきっちりシメるようにもなる。

 

 白川静さんは梅原さんとの対談で(『呪の思想』)狂狷の徒の話をしていたと思う。それは孔子さんのことだが、狂狷でなければ成すことも成せないのだと。

 さかなのこを見ていてその話を思い出した。

 社会に出たときに直面する様々の、難しいことを、ミー坊は、あの穏やかな、狂気の母親のもとで育ち、自身も狂を身に着け、狂狷の徒となり突破してきたのだと。

 本人がごく穏やかな人間だとしても、好きなことを曲げずにずっと続けていく過程には必然的に、狂気が宿る。

 吉本さんは『真贋』の中で、運命や宿命とは、その人と母親との関係のなかで形成されるものだというようなことを言っている。

 ミー坊がミー坊を全うしていくためには、母親の狂気が不可欠だった。そんなことを思った。