<2216>「町とめんどくささについて」

 Aという町があったとする。

 そこに用があっていくらか通っていれば、Aという町だけと関係が生まれたように思う。

 しかし、実際は拠点(ここでは仮にBとする)からAという町まで伸びた線と、その線の往復とから関係が生まれていたのだということが最近分かった。

 拠点がBからCになる。

 CからAへ、用があって通う。

 すると、Cから辿って現れるAと、Bから辿って現れるAは、同じ町なのに、違う場所とはいわないまでも、明らかに違う表情をしている。

 いや、そこの表情自体は同じで、私が拠点から伸びた線を引きずっているだけなのかもしれない。

 

 めんどくさいと感じることの大抵がやってみると全くめんどくさくないので自分に呆れて笑ってしまうことがよくあるのだが、同種の経験を何度繰り返してもめんどくさいという気分が現れるのは、めんどくさいが一種の役割を果たしているからなのだろう。

 現実のなかにあるものは、あまりに大きいもの(例えば家とか)でなければすっとその場から簡単に動かしてしまうことが出来る。

 その、出来ることに対して、全くめんどくささを感じなかったらどうか、と思うことがある。

 そうすると、際限のない移動の可能性に絶えずさらされる場所へ、投げ込まれることになるのではないだろうか。

 止まっている状態から動かすのが、全くめんどくさくなくなってしまったら、ためらいもなくもろもろが、常に動きにさらされて、ちっとも安定しない。

 動くときには動くのだけれども、今はそれはめんどくさいのだ、というのがなければ、ものが、身体が、休まらない。

 現実の身体を上手くめんどくささと付き合わせながら動かせるように訓練していくときに達成感とともに不安を覚えるのはそういう理由かもしれない。

 もう止まる場所を失うのではないか、というような。