受容する身体がひとつひとつ違うのだから、
「お前はあいつのことを何にも知らない」
までならまだしも、
「だから、あいつについてのお前の認識は間違っている」
までいくと、それは違うのじゃないかなと思う。或る人物のことが分かる、そしてその分かり方は大方の人にとって共通のものになるはずだし、その共通の分かり方からズレている人は当然、或る人物についての認識が間違っていることになるはずだ、という考え方は、人々が皆、同じ一個の身体に収まっていなければ成り立たないものだと思う。違う場所に立っている、違う目で見ている、また、見るということは働きであることを考え合わせれば、各々の分かり方というものがそれぞれにあって然るべきではないか。そして各々が独自に何かを掴んでいる以上、間違うというのはあり得ないのではないか(つまり、或る人物について共通の、正解の認識というのは存在しないのではないかということだ)。
例えば、自身の情報の一部を隠すことによって相手を騙しおおせたことにより、相手は、自分について間違っていたという判断を下そうとする。しかし、自らが言い出しさえしなければ相手が知るべくもないことで相手を欺くことなど易いことで、また、その隠している部分が知られなければ、自分というものを本当に知られたことにはならないと考えるのは、ひとつの思い込みでしかない。何故なら、人間は統一されて在りながら確かに分裂していて、時には完全に矛盾するように見えるものをも同時に含んで存在するもので、また各々の目の働きによって、たったひとりの人物であっても、凡そその眺める目の分だけは違って見えてくることが可能なほどには多様な存在であるからだ。
つまり、自分が或る部分を隠しておけば、自分の本当の部分は露呈していないと考えるのは、他者の目の働きを過小評価しすぎている、自分を僅かの面からなる存在だと勘違いしている。自分も全く知らない自分の面、隠す隠さないなどの及ばない領域が、他者の目に曝されていて、存分に眺め尽くされてしまっていると考えるのが妥当だろう。
ひとつの世界を構成する他者は、その眺めるという働きによって、一瞬にして何かを全面的に掴む。あれこれの情報が呈示されていたりされていなかったりということが一体何であろう。それはひとつの世界たる他者の目にはどうでもいいことに映る、いや、そもそも映らない。見たときに何かしら揺らぎ難いものを掴んだならば、それがその他者にとっての全てではないだろうか。むろん、それは全員に共通のものを掴んだということではない。他の人はまた他の人の領域内で、何か違ったものを全面的に掴むはずだ。