人間的だな、と何処を見て思うか?
例えば、豪傑、豪胆である、というところでなく、
ちっとも豪傑、豪胆でないにもかかわらず、
その方向に動いてもいかないにもかかわらず、
それを良しとし、
これでこそだよな、と言うところ、言うことそのもののなかに人間を見る。
決して、本当に豪傑、豪胆であるというところに人間的なものを見る訳ではない。
ラップが好きで、それなりに聴く。
遊び方というか、表現の仕方の多彩さとか、抜群に面白いものであると思うから、それなりに、
聴いていて、しかしよく分からないところもある。
大金を持っていて、もしくは欲していて、傍らに美女を複数人侍らせていて、今誰かの彼女も俺の隣で、というのが、ひとりの人のなかで、
あるいは人から人に渡って、丁寧に繰り返されていることだ。
ラップのいわゆる古典的表現なのかな、と思われるぐらいによく聴くのでこれは不思議だ。
私が分からないと思うのは、ひとつには、ラップという表現形式の面白さは受け取れてもその価値観は受け取れないというか共感が難しいというところにある。
もうひとつには、
「本当にそれ、欲されているのか?」
という疑問があるところに、分からなさはある。
というのは、ラップという言語表現、音楽表現に親しんでいき、制作もしていくような感性を持った人が、本当に、そのような状況に満足するかということ、これは、それだけでは空虚だから表現が取られるのではないかという私の考えから出発している訳だが、つまりそこに自足していれば表現形式は特別必要なくなるのではないかと思うのだ。
それでも、それだけでは空虚だから私はラップをする、というスタンスではなく、丁寧にそれら古典的? 伝統的表現は繰り返される。
分からないなあ分からないなあ、と思っていたところ、
「これは表現される言葉の強度が欲されているという問題なのか」
と考えるとなにか分かり始めそうな気がしてきた。
つまり、古典的表現で表される現実状況の方ではなく、その一連の言葉自体の強度の方に魅力があって、だからこそそれは丁寧に繰り返されるのかもしれない、ということだ。
すると、その強度を持った言葉を自身の表現のなかに乗せるために、それだけでは空虚に思える現実状況を、実際に経過するという、いわば言葉のための裏側の努力というか勤勉さなのかもしれない、と思ったら、途端に分かるようになった。
尤も、実際は全然そんなものではないかもしれないが、そういうアプローチを取ると私にも分かって来る。
強度を持った言葉を丁寧に並べるために現実状況をそれに乗せる、経過する、という、ラップをする人の勤勉さなのだとしたら、よく分かる。
現実状況より言葉の方が強い。
当たり前で馬鹿みたいな話で申し訳ないが、例えば大スターと結婚する、というような場合、
すごいのはこの文字列の方であって、
現実にひとりの人と人とが結婚するということはいくら相手が大スターであろうと、なんとも当たり前というか、あっけないことであると思う。
だから、大スターと結婚することを夢見続けてきた人が、本当に大スターとされる人と結婚する段にまでいたったときに思うことは、
確かに想像していたことが現実になったけれども私が夢中になって追いかけていたのはその文字列、もしくはその文字列からくる響きの方で、現実に結婚するというのはどこまでも具体的な、そのままのただの現実で、想像と現実はここで出会ったけれども違和感なくひとつになった訳ではない、というようなことではないか。
ああ、言葉に踊ってきたんだな、私は。
言葉でないとここまでは踊れないんだよな。
という。