『心はこうして創られる』
何回も言及してしまうが、いやあ面白い。
今度はまたこの本を読んで違うことを考えている。というか思い出している。
本の中で、人間は記憶の蓄積を使って即興的に言説をその場その場で作り出しているという話が出てくる。
それで思い出したことがあるのだが、まだ多分小学生の頃だったと思う。
授業中だったか、休み時間だったか定かではないが、ある特定のニュースに関することが皆の話題に上がった。
大きな扱いを受けていたニュースだったので、私もそのニュースを知っていたし、ワイドショーやニュース番組で話されていた内容も随分いろいろと記憶していた。
クラスメイトから、あなたはこのニュースについてどう思うかと訊かれた。
私は、特にそのニュースについて思っていることはなかったのだが、何しろワイドショーやニュース番組などをいろいろ見ていて、内容を記憶していたものだから、それらを適当に頭の中で編集して繫ぎ合わせて、それらしいことをクラスメイトにペラペラと喋ってみた。
またまたそんな、どっかで聞いたようなことを集めて、それらしいことを言ってらあ、と突っ込まれて、あははと皆が笑ってくれることを期待していた私は、ペラペラと喋ったあと、皆が心から感心しているようだったのを見て、とても驚いた。
驚いたと同時に、これは一体なんだ、と思って、なんだかこわくなった。
いろいろなことを考えている人なんだと思われたのか、その後も別の話題やニュースについて意見を求められるようになり、私は段々と人を騙しているような気持ちになってきて嫌だったので、最初にやったように材料を適当に組み合わせることは出来たかもしれないが、もうそういうことはやめようと思い、
「まあまあまあ、いろいろあるよねえ」
などと適当なことを言って濁すようになった。
それを続けていると次第に意見を求められることもなくなり、ほっとした思い出がある。
しかし、『心はこうして創られる』である。
頭の中にある材料を適当に編集して、その場その場で喋ることを即興で作るのが人間の脳の姿なのだと言うではないか。
まだ小学生だったから、大したことは出来なかっただろうとはいえ、一応は脳の動きに素直に従ってものを喋っていたことになる。
そうすると、その、材料を編集してそれらしいことを話すことができるというのを、そこまで人を騙すこわいことのように感じなくても良かったのかな、と今になっては思う。
それが可能であること自体が、既に考える力がある程度あったということだったのかもしれない。
それでもまあ、これぐらいのことはただ頭の中で材料を編集しただけのもので、考えられることはもう少しあるのではないかと常に批判的に検討することも必要ではあるし、即興で組み立てるにしても、小学生時点ではストックが少ないだろうから、それだと結局あまり大したことは言えないし、それに感心されると戸惑うという気持ちもあっても良いものかもしれない、とまた思ったりする。