他人は、どこまでも自分を含んだものとして在るとはどういうことだろうか。自分で見ているというのはそういうことだが、おそらく、自分を含まないその他人というものを見てみたいと思えば、何もかもを完全に見失うことになるだろう。目を瞑ってみたところで、そんなものは何の解決にもならない。
もっとも遠いはずの人が、自分の範囲からは出ない。どういうことだろうか。自分が見ているというのはそういうことだが、限界は、あちらにあるのではない、こちらにあるのだ。そこまでしか見えていないということを確認すると、その途方もなさに、どうしたらいいのかが分からなくなってくる。
この人は、自分の一部ではない、そうではあり得ないのだが、自分でしかないものが外部に、具体物として現れた、と感じてしまっている。見ているというのはそういうことだが、どうもおかしなことだ。ひとりの人間について、バラバラになる意見を無理にひとところに集めようとする努力は、滑稽で苦しい。あなたが映っているものとしての私が、そこにあるだけなのだから。