生活は誰の為にしているか。それは私の為だろう。では、生活は何時の為にしているか。これは少し難しい。
仮に、今日の為に、今の為にしているとしよう。ではその状態で、ある日突然、
「もうこれ以上明日は無い」
ということが確定されたら、今やっているのと同じルーティンを繰り返すだろうか。もし繰り返さないとしたならば、いままでやってきた生活は明日の為、というか明日のことも考慮に入れてやっていたのではないだろうか。
では、生活は明日の為にやっているのだとしよう。しかし、その、
「明日」
は、いつまで訪れ続けるか分からない。そしてもちろん、たとい前述のような確定がもたらされないとしても、もう今日のこの日で終わりだというときが必ず来る訳で、またそのタイミングもいつかは分からない。そしてそれらの事実を多かれ少なかれ承知していながら、私は生活を営んでいる訳だ。ということは、来るかも分からない明日の為に生活を営んでいるという結論づけは、間違っていないにせよ、ちと弱い。そんな曖昧な未来というものへ中心を据えて生活を組み立てている訳ではないからだ。
そうすると、
「生活は、何時の為にやっているのか」
という問い自体、あまり適当なものではないのかもしれない。生活というのは、突然明日が来なくなり、しかもそれがいつ起こるのかが分からないという状態に置かれた人間が、取り敢えずの対処をする必要から生まれたものであり、そういったものには今日の為であるとか、明日の為であるとかいった捉え方自体が存在しないのかもしれない。