また、同じ絵の前に佇み、飽きもせずぼんやりと眺めている。何故この絵が好きなのかはよく分からないが、何となくまた見てしまう。
「37年の生涯だったのだな・・・」
描いた人の生きた年数だ。37年。
「短い・・・」
と考えたところで、はて短いとはどういう訳かと疑問に思う。今の自分の年齢で考えると、残り10数年で死ぬという計算になる。そう考えると短いのか。では死ぬまで残り30年だとすると、これは長いか短いか。ともかくも、37年の生涯の長さ短さとは。本当に短いと言えるだろうか。
「そうでもないのではないか」
例えば今私が死んだとする。数字の上では37年より短い。周りもおそらく短いと言うだろうし、
「短い生涯だった」
と、あまりにも自然に評されるだろう。
だが、それは他人の感覚で、自身の感覚からすると、これだけ生きたから長いとか短いとかはいまいちよく分からない。これまでの年月を振り返ってみても、20数年がはて長かったのか短かったのかがまるで見えてこない。そもそも、時間を蓄積しているという感覚がない。
「生を全うした」
と言われるとき、それは20数年で死ぬことを指しはしないだろう。だが、80~90年、あるいはそれ以上生きた人が、確かにそれだけの生の長さ、蓄積を身に感じながら、全うしたという心持ちでもって死に及ぶ訳でもないのではないか(データの蓄積量などで、観念の上では長さを捉えることは出来るかもしれないが)。
長く生きたと評される人も、自身の生活中その都度その都度、長く生きたとか短く生きているとかを直に感じていたのではないような気がする。周りの変化で相対的に長いと感じることはあっても。
ふと、下校途中らしき小学生とすれ違う。小学生とは10数年以上の、生きてきた長さの差があるわけだが、私は、その10数年の重みの分だけを、小学生より多くこの身で感じているのだろうか。
「いや・・・」
どうもそうは思えない。蓄積を直接には感じられない1対1の人が、生の長さ分だけの重みなど感じられないままに、何の差も無くただすれ違っただけなのだ、というような気がしてならない。
37年という時間を過ごした人の絵は、そこから100年以上の時を隔ててこちらまで届いている。もし、本当に時間の蓄積を感じられていたら、長さを直に感じていられたのなら、絵は、100年を隔ててこちらまで届かなかったのではなかろうか。