「無駄をやるのが大事」とはどういうことか

 「無駄なことをするのが大事」

と言うが、それは何故か。そもそも無駄なこととは何か。

 人生に意味があるとかないとかが人間の分別でしかないとすれば、営みの全ては無駄なことだとも言えるし、営みの全ては無駄なことではないとも言える。

 そうすると、

「無駄なことをする」

とわざわざ言う意味が無くなってしまうから、おそらく冒頭の場合の、

「無駄」

とは、

「経済的な価値がない、実社会で役に立たない」

ということの言い換えだと考えるのが適当かもしれない。もしそうだとして、何故その無駄をあえてやることが大事になってくるのだろうか。

 理由のひとつとして、空気を作り出すということがありそうだ。つまり自らをひとつの家と見立てたとき、役立つもの(家具など)ばかりで空間を埋めてしまうと、非常に息のつまる、窒息しそうな室内が出来上がってしまう。だから、役に立たないものを自らに取り入れることによって、空間を作り出す必要があるという意味で、無駄なことは大事なのではないかということだ。

 もうひとつの理由として、

「生の追体験」

が可能になるということがあると思う。前述したように、意味無意味というのはおそらく人間の分別でしかないのだろうけれど(故に本当は無駄だとか無駄ではないとかは決められない)、それでも一応、社会的に意味があるとされているものばかりを追っていては、生というものの無分別を見ることが出来ず(そこに対して盲目になる)、ありもしない有意味を探ろうとし続ければ生に接近することが出来なくなるから、その反対として、

「経済的な価値がない」

という、人間の分別の上での無意味、無駄を通過することが、その根本にある生の、分別がないという意味での、

「無意味」

を追体験するために大事になるのだろうと思う。というより、そうするしか生に接近する方法が無いような気がしている。