<342>「無関心であること」

 無関心であることは罪である、無関心が人を殺す・・・。なるほどそれは間違いではないのだろうし、そういうところも実際あるのだろう(ただ、全面的に合っているとは言えない)。では、翻って関心は人を殺さないかと言えば、殺すのである。しかも無関心と同じか、あるいはそれ以上にである。

 無関心というのは、勿論負の側面もあるが、それが無ければ生きられないぐらい大事なものでもある。自分自身の無関心にも支えられているし、他人の、自分に対する無関心にも支えられている。もし、自分の内に無関心というものを持つことが出来ず、他人の、自分に対する関心も尽きることがない世界というものに居たとしたらば、それは正真正銘の地獄にいることになり、発狂してしまうか死んでしまうかするしか逃げ道はなくなるだろう。想像してみてほしい、生まれ出た瞬間から死ぬ瞬間まで、知り合いの人からもそうでない人からも関係なく、延々と自分に対して関心が降り注がれ、それに対してこちらは無関心で対応するということが全く出来ない状況というものを。しんどいとかで表現できるレベルの状況ではない。

 大事なものであるにかかわらずあまり意識されないのは、関心というものが、積極的に何かを防いでいるのは見えやすいのに対し、無関心というものによって、何かに関与しなかったことが悲劇を防ぐ結果になったというのは見えにくい、あるいは全く見えない(結果としてあがってこないものだ)からである。無関心がこれだけの人を救いましたよ、というデータはないし、示せないのだ。また、単純に、無関心は感じが悪いということも関係してくる。これは無関心の欠点というか弱みなのだが、それ自体感じの悪いものを大事なものだと思ってもらえるように持っていこうとしても、なかなかそれは難しい。愛憎劇の末の殺しを報されて、ひどいとかこわいとか許せないとかの感想を抱く人はあっても、何か感じ悪いな・・・という感想を抱く人はまずいないだろう。しかし、愛憎劇を演じる人物の片方が、ひどく無関心であったがために、殺しまで発展しなくて済みましたよ、という結論が届けられた場合、ああ、良かった良かったという感想を抱く人ももちろんあるだろうが、何か感じ悪いなという感想を抱く人もいるのである。そう、殺人が防がれていようが、こちらにはいるのだ。この上、相手の無関心にぶつかったもう片方が、そのことによってひどく衰弱したり、最悪の場合自死を選んでしまったりすると、そのときに周りの人間が感じる何とも言いようのない不快感、憎悪というのは、末の殺人のときの比ではなくなる。

 無関心がないと生きられない、それは知っている、無関心はデータに出てこないだけで、沢山の人、物事を救っている、それも知っている、ただ、知っていたところで、無関心に何らかの感じ悪さを覚えてしまうのもまた、どうしようもない事実なのだろう。感じ悪いなあ・・・という思いを味わわされるより、ひどいとかこわいとか思えている方がまだ分かりやすくて楽なのだ。