不愉快な贈与を、どう超えていくか

 『生まれてから今までの人生で、無数の施しを受けてきたのだから、今度は自分たちが同じように、次の世代に対して施しをしていかなければならない』

『贈与に対しては返礼をしていく義務がある』

 これらの言は、社会を円滑に動かしていくための論理、マジョリティの為の論理としては最適だというように思う。ただ、私個人としては、これらの言に関して何の関心もない(もちろん、だからと言ってそれを邪魔するつもりもない)。何故関心が無いかと言えば、

「贈与者の態度ひとつで、贈与という行為は受贈者にとってあまりにも不愉快に映る」

ということを、これらの言が考慮に入れていないからである(参照『贈与と感謝』)。これらの言は基本的に、

「贈与を肯定的に受け取ることが出来る環境に居た人」

だけを想定しており、

「あまりにも不愉快過ぎて、贈与者を憎みたくなる環境に居た人物」

のことは想定されていないから、私は全く何の関心も湧かない。それが通用する人達だけで勝手にやっていてくれという感想を抱く。

 私は、ただただ私個人の問題として、

「不愉快な贈与を受けてきたことを、自身がどう超えていくのか」

ということだけに関心がある。またそれが、背負わざるを得ないテーマだとも思っている。

 この場合、超えていくとはどういうことを指すのか。それは、

「自身の不愉快な受贈体験から来る恨みを、社会に対する恨みに転換してごまかすことをせず、かと言って贈与者に対して、あなた方がやってきたことがいかに不愉快だったかを理詰めで説くこともせず、不愉快は不愉快としてしっかりと見据えながら、社会と、あるいは贈与者と、破壊的にではなく建設的に関係を構築していく」

ということを指す。

「そんなものは対象と距離を置いて、仕事でもして暇を潰していれば即達成せられるではないか」

と思われるかもしれないが、

「超えていく」

ことと、

「距離を置くことで、その問題を考えなくて良くなる」

こととは違う。距離を置くことは、処世術のひとつとしては勿論大いに意味のあることと思うが、結果的に関係を建設的に解決するには至っていないから、距離が近づくたびに揉めることになってしまう。

 そうではなくて私は、肯定だとか否定だとか、恨みだとか感謝だとかそういうもの一切を飲み込んで、しっかりとその問題を乗り越えていきたいのだ。