そんなに過敏になって圧殺しなくとも、別に大丈夫なんじゃないだろうか

 例えば、世の仕組み、常識とされているものに対して、

「これはどうも違和感しか覚えられない、何故こんなことが当たり前とされているのか」

という疑問を抱いた私が、

「ねえ、これって変だよねえ・・・」

と相手に投げかけるとする。すると相手は、私が疑問を呈した内容が常識に近ければ近いほど、

「そんなこと言ったって、皆そうやってきてるんだから文句言うなよ」

であるとか、

「良いからお前も黙ってやれよ」

であるとか、

「そんなこと言って、じゃあお前が何か出来るって言うの? そうじゃないなら黙っとけよ」

といった、過敏な反応を返してくる。

 別に私は、全ての常識に逆らって行動をしようと思っている訳ではない。たとい違和感を覚えていることでも、表面では常識に合わせておいて、やり過ごすことも沢山ある。それでも、その上で、

「変だなあ・・・」

という感覚だけは、圧殺せずに置いているだけの話なのだ。

 しかし、そのスタンスはあまり伝わらず、いろいろな人と話をする限り、この、

「常識に従うか従わないかはともかく、疑問は疑問として持っておく」

ということ(あるいはそういう人間に触れること)が苦手な人が多いように感じる。何か、自分のなかの違和感というものはしっかりと圧殺しておかなければ、社会のなかでは生きていられない、そうしないと、自身の社会性が脆くも崩れ去ってしまうという強迫症に迫られているように感じる。おそらく、それだから私の、

「変だよねえ・・・」

という、ただの感想でしかないものを、過剰に嫌がるのだろう。それゆえ、

「私は、自身の気持ちを圧殺することに努めているのに、それをぶり返そうと画策する悪い奴が現れた」

というような目を向けられてしまう。

 私なぞは、

「そんなに無理して圧殺しなくとも、あるところでは常識に沿ったり、あるところでは沿わなかったり、沿いながら内部では反発を残したり、というようにして、上手くやっていけるのではないだろうか。別にそれで大丈夫なんじゃないだろうか」

と思っているのだが、どうもそういう疑問を持つこと自体を潔癖的に嫌がる人が多いように感じる。