満ち足りた状況の時にも訪れる謎の敗北感

 今の世の中で、一体どれくらい稼いでいれば裕福だということになるのか良く分かりませんが、最低でも、年収が何千万だというようなことになれば、おそらくその人は富裕層であると言うことが出来るのではないでしょうか。

 そして、富裕層と呼べるほどの収入を得ている人ならば、よほど豪勢な暮らしをしているのでない限り、金銭面で何か深刻な問題にぶち当たるというようなことは、ほぼ起きないと思っています(勿論、突然の失職や、事件を起こすなどの、金銭問題を生み出す突発的な出来事に遭遇する可能性は0ではありませんが)。

 しかし、このような、

「深刻な金銭的悩み」

を抱えていない、もう既に今の財産で満ち足りているような富裕層であっても、そういった富裕層より、また一段と稼いでいる、「億万長者」とも言える人物が現れて、その人物に、

「お前は私に比べると、本当に僅かばかりの金しか稼いでいないんだな」

と言われてしまうと、それに対して、

「イヤイヤ、あなたほど稼がなくても、充分満ち足りているよ」

とただ事実を答えただけなのに、何故かその言葉がむなしく響いてしまうという現象があるように思います。

 これは何故でしょう。ここで挙げた「富裕層」が、お金に拠って充分満足を得ていることは、紛れもない事実なので、「満ち足りている」と返すことは、強がりでも負け惜しみでも何でもないのに、何故かむなしく響いてしまうんです。

 きっと、一般的な富裕層にあたる人も、また一段と高いレベルで稼ぐ「億万長者」になれば、それだけ幸せが比例して増えていくとは思っていないでしょうし、反対に、「億万長者」だって、金が増えた分だけ幸せも増える訳でないことは百も承知のはずでしょう。 

 それなのに、ある人間とある人間同士が、金銭面に関わることで言葉を交わすと、別に「多く」持っているからどうという訳でもないのに、

「数を沢山持っている」

かどうかが、それ自体で力を持ってしまうようなところがある。そして「数を、より沢山持っていないもの」は、満たされているのにも関わらず謎の敗北感を背負う。これはなんとも不思議なことです。