今、ミヒャエル・エンデという人が書いた名著『モモ』を読んでいて、まだ途中なのですが、良い意味でのショックを受ける言葉が満載なので、ここでもひとつ紹介したいと思います。
『時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。』
「時は金なり」
「時間は貴重だ」
と言われて、人々は無駄を排除し、時間を節約していく・・・。
しかし、我々は、時間を節約した先に、一体何がしたかったのでしょうか・・・。それこそ、無駄に友達とお喋りをし、無駄にお出かけをし、無駄に、全く無駄に遊びたかったのではないでしょうか。そして、それらは本当の意味では「無駄」ではなかったのではないでしょうか。
それに気づかないまま、
「時間を節約しろ」
という言葉に煽られて、徹底的に無駄(だとみなされるもの)は排除されていく。そして本当は、無駄に遊びたかったということには気がつかないまま、「時間=生活」を節約し続け、ついには時間も生活もなくなってしまう・・・。
私は、良いショックを受けると同時に、上記のようなことを思って怖ろしくなりました。というのも、私は世間一般の平均と比べて(別に統計を取った訳ではありませんが 笑)、比較的、無駄を愛し、無駄を生きているという自負はあったのですが、それでも、
「時間を節約しろ」
というメッセージを目にして、その意味などよく考えないまま、
「確かにそうだよなあ」
などと頷いていた自分が存在したことをよく覚えていたからです。その意味も良く考えないで、「そうだよなあ」と思っていた私は、節約してその先に何がしたかったのでしょう。もしかしたら私も、無駄を生きているつもりでその実、止まらない時間(生活)節約の連鎖、節約の為の節約の連鎖に巻き込まれていたのかもしれません。
最近偶然、
「そういえば子どものころ『モモ』という小説を読んだなあ」
と思いだしたから良いものの、もし今思い出していなかったら、今後一生『モモ』と再会することもなかったのかもしれないということを思うと、余計に怖ろしくなりました。
えー、矢鱈に怖ろしさばかりを強調してしまいましたが(笑)、前述のように、良いショックも受けたし、また、時間の面白さについても思いを馳せるようになりました。例えば、
「楽しすぎて、一瞬で過ぎていってしまった、友達との全く無駄なお喋りの時間」
は、勿論、楽しかったから何の不満もないのですが、きっと、無駄を排除して時間を節約しろという声をどこかで意識していたのでしょう。
「しかし楽しかったとはいえ、全く無駄に時間を使ってしまい、しかも一瞬で過ぎてしまった」
などという気持ちがどこかで生じてしまうんですね(勿論、遊びが無駄だというのはただの勘違いなのですが)。しかも時間が一瞬で過ぎてしまったため、何だか時間が勿体なかったかのような錯覚まで覚えてしまうんです。
ただ、驚くべきことに、それらの一瞬で過ぎてしまったはずの楽しい時間は、時が経てばたつほど、記憶の中で時間の長さを取り戻していくのです。または記憶の中で濃くなっていくという言い方も出来るでしょうか。
反対に、時間が一瞬で過ぎちゃ勿体ないからといって、徹底的に無駄(だと思っていること)を排除し、遊びを排除して、ゆったりと有意義(だと思っている)に使ったはずの時間は、時が経てばたつほど、記憶の中で、時間の長さを失っていくのです。徹底的に遊びを排除したゆったりとした時間は、記憶の中でほとんど長さを、濃さを失ってしまうのです。