価値判断を、適応欲求が上回る怖さ~それを避けるには~

 世の中で当たり前とされていること、当たり前ではないとされていることとは別に、各々人間は、

「これはおかしいな」

「これは良いな」

というような、自らの価値判断基準を持っていると思います。そして、自らが望むように生きていくためには、自らの価値判断に従っていくのが一番賢明であるとも思います(勿論、だからといって、進んで犯罪に及ぶような事はいただけませんが)。

 しかし、共同体の論理からはじかれることには、かなりの不安が伴うため、自らの価値判断では、

「おかしいな」

と思っていても、その不安を避けるために、共同体に適応したいという欲求が高まり、最終的には、自らの価値判断を押し込めてしまうことがあります。

 その、適応欲求の強さ・高まりというのは非常に怖いもので、例えば、戦争中のような、進んで命を投げ出すのが素晴らしいとされるおかしな常識がまかり通っている最中に、兵士として徴兵され、徴兵された方は、

「進んで命を投げ出しに行くのなんて、おかしいなあ」

と頭では思っていても、共同体の論理が、

「進んで命を投げ出すことは素晴らしい」

となっていたら、知らず知らずのうちにそちらの論理の方に適応していきたいという気持ちが芽生えてきて(そうしないと不安なので)、頭ではこんなことおかしいと思いながらも、兵士としての資質を高めていくための訓練に精を出し、適応していくよう努力するという矛盾が、個人の中で、平気で起こってしまうのです。

 つまり、適応欲求が高まると、世の中の方向性に疑問を持つ姿勢、自分の中の「これはおかしいぞ」という意識などは脇に追いやられてしまい、別に、共同体の論理が正しかろうが間違っていようが、とにかくなんでもかんでも共同体の論理に従うという盲目的姿勢が生まれてきてしまうのです。

 これは、何も戦争中のような極端な例だけではなく、一見平和に見える今の世の中でも同じことで、多くの人が、

「何かがおかしいぞ」

と思いながらも、そのままの状態が維持されて、何も変わっていかないのは、人間の適応欲求の強さ・共同体の論理から外れるという不安の強さ故であると思っています。

 しかし、それを責める訳にはいきません。それだけ共同体の論理から外れるというのは不安が大きいのです。では、他人をとやかく言う前に、自らが、不安故に適応欲求が高まっていくことを防ぐためには何をしたらいいのでしょうか。

 おそらくそれは、

「自らの価値判断であったり、盲目的に共同体の論理に適応していかない理由を、面倒くさがらずにちゃんと説明する」

ことによっていくらか達成できると思われます。

 どういうことかと言うと、共同体の論理に盲目的に従うことの大きな利点の一つとして、

「説明や弁明をすることが不要になる」

というのがあると思っているからです。いろいろ説明したり、何故共同体の論理に従わないのかということをいちいち突っ込まれて、そのたびに議論をすることになるのは面倒だし、自分の中の、「何故共同体に従わないのか」という声と自問自答することも面倒くさいし、その声を聞かされ続けるのは不安だから、共同体の論理に従っている人が意外に多いのではないでしょうか。

 ですから、それを面倒くさがらずに、他人にも自分自身にもいちいち説明できるようになれば、頭ではおかしいなと思いながら、共同体の論理におもねるというような矛盾行為を行うことは、ある程度防げるかもしれません。