朝型になるたんびに思うこと

 普段このブログは夜に更新しているので、夜に書いているのだろう、というとそうでもなくて、夜は、ただ打ちこんでいるだけなんです。つまり、朝のうちにノートに書いておいたものを、一旦夜まで置いておいて、打ち込むときに少し訂正を施しながら・・・、という具合に更新しているのです。

 何が言いたいかというと、別に何かしなきゃいけないこともないから、ぼちぼち昼間あたりに起きてきてというのではなく、なんとなくちゃんと、「朝型人間」にしばらくなっているということなのです。というのも、私は中学生ぐらいのころからずっと、基本的には「夜型」なので、いままでずっと「朝型」にはなりたくてもなれない、なれたとしても一瞬の間だけというような調子だったのですが、ここのところずっと、朝早く起きることが出来ているという状態なんです。

 何故朝ちゃんと起きられているのかは、思い当たる節がいくつかありますが、それはまた今度にするとして、今回言いたいのは、朝型に戻るたんびに(たといそれが一瞬の出来事であったとしても)、

「ああ、気持ちとか気分というのは、思考とか価値観とは関係ないのかもしれないなあ。」

というようなことを思うんだということです。

 例えば、「死」などの重たい問題について考えていたとしても、「朝型」になっているときは、一日を通して(多少の浮き沈みはありますが)気分が良いのです。つまり、どんなに厭世的な価値観を持っていようと、どんなに暗いことを考えていようと、それは気持ちにはほとんど影響を与えず、朝早く起きるか否かが物凄くその日の気分に関係してくるんだということを感じているのです。

 逆に言えば、「夜型」であるときは、

「ああ、俺は厭世的な価値観や、暗い考えを持っているから、こんなにも気分が晴れないのだ。」

というように間違えて解釈してしまいます。気分が暗いのは、朝型になっていないからだ、というのを何度も実体験として分かっているはずなのに、「夜型」のときは、その事実に気づけません。

 「朝型」のときの自分が、「夜型」の自分を救ってやれたらこんなに良いことはないのにと思いますが、なかなかそんな器用なことはできません。

 やはり、人間の持つサイクルというのは、「朝早く起きて、夜早く寝る」なんだなあというのが身に沁みて良く分かります。慢性的な「夜型人間」で良かったなと思える唯一のことが、「朝型」の有難みを、これでもかというほど感じられるという点です。