自分の中の正しさと、自己懐疑との狭間

 自分の言っていることは間違っているかもしれない、という意識を持つことの重要さは、つまるところ、人間の考えていることは到底真理へは辿り着けないという所から導かれるやもしれません。

 どんなに自分の頭で判断して正しいと考えていても、それは、ただの人間が考えている以上、揺るぎの無い真理とは程遠いものであり、依然として思考を点検し続けなくてはならない。「正しい答を得た」と思って、思考を停止すると、真理からはだいぶ離れたままで危ないよ、ということだろうと思います。

 ただ、「自分の考え」というものは、理屈を積み上げた回数が多い程、あるいは屁理屈をこねくりまわした回数が多い程、自分にとっては納得のいく、「確かなもの」として、頭の中に存在しています。その考えを、「間違っているかも」と自ら疑ってかかることは、口で言うのは簡単ですが、行動に移すのは、なかなかに難しいものです。

 やはり、時間をかけて、労力をかけて形成したものを、

「なんだい、所詮、俺の思考じゃないか、こんなもの」

と、口では言っても、実際に解体するとなると、物凄くためらいます。一応、自分の中では正しいのだから、なおさらです。

 しかし、だからといって、「間違っているかも」という意識を無視してしまえば、あっという間に思考の柔軟性は失われ、

「自分で考えたんだから正しいに決まっているんだ」

という傲慢さが顔を覗かせてきます。私も、なるべく避けるようにはしているのですが、人を批判する時などに、つい、この傲慢さが出てきてしまうことがあります。

「何故あなたにはわからないのだ。どう考えたってこうだろう。」

と、言いたくなってしまうのですね。しかし、「どう考えたって、こう」なんてものは、あるのかどうかも怪しいものです。それに、私の考えていることの方が間違っている可能性も大いにあります。もし批判をするならば、相手も尊重し、

「私は、あなたとは考え方が違う。そうは思わない。」

で止めておけばいいんです。それを「あんた、分かってないな、こっちだよ」と言うのは、かなりの傲慢です(気をつけます・・・)。

 納得できる確かな「自分の考え」と、「間違っているかもしれない」という意識の間でバランスをとるというのは、かなり難しそうです。どうしても「自分の考え」が優位になってくる。しかし、「間違っているかも」という意識が、たとい普段優位になってこなくとも、必ず頭の中に置いておいて、ことあるごとに取り出して、バランスをとることは、思考の柔軟さを失わないためにも、意識的にやっていきたいと思っています。