何を隠そう、玉置浩二さんの大ファンでありまして、普段、音楽プレイヤーなどで聴いているのは勿論のこと、テレビの音楽番組に出演しているときなども、全てではありませんが極力チェックするようにしています。
テレビの音楽番組というと、淡々と、歌手が順番に歌っていく番組もありますが、ちょっとしたトークや企画などのバラエティ的要素を含んでいるものも多々ありますね。玉置さんは、そういったバラエティ的音楽番組に出ているとき、例えばトークをしているときなどですが、ギターを一本抱えながら、あるいはすぐ脇に置きながら喋っているということがよくあります。
私はそれを見て、もちろん玉置さんのファンですから、トーク中にアコースティックギターで歌を聴かせてくれるのはとても有難いなあと感じていると同時に、
「玉置さんはサービス精神旺盛なんだなあ」
という感想を持っていました。
しばらくの間、何度かそういった光景を目撃しているうちに、確かにサービス精神旺盛であることは間違いないんだけれども、
「あれ? 玉置さんは歌っているとき、すごく喋りやすそうだ」
ということを新たに思ったのです。歌っているのに喋りやすそうというのは変な表現ですが、そうとしか表現のしようがない感覚なのです。
もちろん、歌を歌っていないで普通に話されているときも、それはそれでとても面白いのですが、それでもどこか、本人は喋りづらそうな、窮屈な思いを抱えているように見え、それがひとたびギターを持って歌いだすと、一転して、とても饒舌に喋っているかのように私の目には映るのです。
『ああ、玉置さんにとっては、歌が「母語」なのかもしれない』
というのを後になって思いました。道理で喋りやすそうに見えた訳です。
もちろん、一応本来の意味で母語であるとされている「日本語」を使って喋っても、気持ちや感覚が伝達できない訳ではないけれども、何かいまひとつ真っすぐ伝わっていく感じがしない。まるで外国語を操っているかのような不便さがある。
それにたいして、「歌を歌う」と、これが本来の母語であるかのように上手く伝わる(もちろん玉置さんは主に「日本語」で歌っている訳だから、喋る場合と同じじゃないかと思われるかもしれません。私は「歌が母語なのかもしれない」と言いましたが、厳密には「歌うことによって表れるメロディーみたいなもの」が本人にとって「母語」に近いんじゃないかということです)。 そういう感じを玉置さんは持っているのではないかと思いました。
世で言われている「コミュニケーション能力不足」も、これに関係があるのではないかと思いました。日本語が「母語」であるはずで、日本語で話しているのに、その実、まるで外国語を喋らされているかのような難しさを感じることを「コミュニケーション能力不足」と呼んだのではないかと思うのです。
そして、人に指摘されるされないに関わらず、伝達が上手くいかないという感覚を覚えた人は、何か他の「言語ではない母語」を探しに行くのではないか。それは歌であったり、踊りであったり、絵画であったりと、人それぞれだと思います。こういうように考えると、芸術が発展していったのは、世に言う「コミュニケーション能力不足」を感じている人が大勢いたおかげであったかもしれません。
玉置さんのような、歌と一体になっている素晴らしい歌手の方だけではなく、私のようなどこにでもいる人間でも、
「歌うと、喋るより多くのことが相手に伝わったような気がする」
というような感覚は、曖昧ながら何となく分かるような気がするんです。
「話される言語」というのは、実は「母語」からはかなり遠いのかもしれません。そんなことを思いましたが、皆さんはどうでしょう?