養老孟司さんの著書、『バカの壁』の最初に、『「話せばわかる」は大嘘』という題があります。その中で『「話してもわからない」ということを大学で痛感した』と言って、一つの事例を語っているのですが、それを読んで私は、
「うん、確かにそうだろう」
と納得しました。
ただ、養老さんの言っていることは正しいと思うのですが、
「話せば分かる」
という言葉を生み出した人は、あながち事実関係において思い違いをしていたという訳でもないんじゃないかというように思うのです。
何故というに、つまるところ「分かる」というのは、「分けられる」という意味から出発しているからです。
「話せば、何かお互いの気持ち・感覚を共有し合える」
というのを
「話せば分かる」
として扱うからおかしくなってくるのであり、「分かる」という言葉の出発点に立ち返って考えれば、
「話せば、自分と他者との気持ち・感覚の違いがあきらかになって、自分と他者とをしっかり分けられる」
というのを
「話せば分かる」
として扱えるのです。
もしも、「話せば分かる」というのは現代の用法だと、どうしても「気持ち・感覚を共有する」という意味にしか見えないと言うのであれば、現代に即すように修正して、
「話せば分けられる」
という言い方にすれば、いくらかスッキリすると思います。
以上の話にいくらか関連しているのですが、私も、他者と話せば話すほど、自分とは違うなあと感じさせられます。まさに「話せば分けられる」です。どうしても、考えの立脚点が自分の頭だけになってしまいますから、他人と自分とはあくまでも違うということが分かったつもりになっていても、
「もしかしたら、私の頭で考えていたことは、皆共通に思っていることかもしれない」
と勝手に考えてしまいます。そして、話してみてあるいは書籍にあたってみて初めて、
「ああ、全然共通ではなかった」
と、はっきり気づきます。
自分の考えと皆同じだろうと漠然と考えていて、よく考えを巡らせてみたら全然自分とは違っていたという例の一つに「ナンパ」があります。道行く知らない人をお茶に誘うあれです(笑)。
私の場合、どんなに綺麗な人が誘ってきていたとしても、知らない人には絶対についていきません。何を裏で企んでいるか分からなくてこわいからです。それ故に、「ナンパ」をしたことはありません。他者も、そういう恐怖を、私と同じように抱えているだろうと思っていたからです。
しかし、現実には「ナンパ」をする人もいれば、「ナンパ」についていく人たちもまた一定数存在しています。これは私にとって驚くべきことです。何故、知らない人をそこまで信用しているのかが、私にはわかりません。
ただ、ぼんやりと「皆同じだろうなあ」と思っていた幻想は消え去り、「ナンパ」を苦にしていない人達と、私は全然違うと、とりあえず「分ける」事が出来ました。