母語としての日本語は脇に置いておいて、感覚という母語の母語を浮き上がらせるため、全く馴染みのない言語を操る人たちの映像を延々と見てみる、という遊びをしてみたのだが、これが赤ん坊の頃に抱いた感覚だろうか。話す人々の表情、音の高低などを頼りに、整頓された音としての言語を、語義からではなく、感覚から掴みにいこうとする自身の根底的な努力に触れたような気がした。
なるほど聴き続けていると、言葉の意味は一向分からないが、おそらくこういう気持ち、感情で、こういうことを伝えたいのだなということが、感覚を通してこちらへ押し寄せてくる。ここから、赤ん坊ならば、音のリズムや高低を模倣し、次第に整頓具合を高めていくという作業を取るのだろう。
私も実の赤ん坊のように、整頓の精度を高めるという方向からのアプローチを試みようとしたのだが、如何せん赤ん坊とは違い、日本語という整頓された音が、身に付き過ぎるほどに身に付き過ぎてしまっているから、どうもそちらに(頼るという意識すらないまま)頼ってしまう。いくら意識の脇に置いたところで、皮膚にびっしりとくっついている日本語から、完全に離れることなど出来るはずがないのであった。
しかしまた、だからといって母語の母語が私の中で死に絶えている訳でもなく、ひとたび上記のような遊びを試みれば、それが依然として私の中で力強い役割を果たしていることが明らかとなる。そうすると、感覚優位で、母語は意識の外に追いやるのではなく、補助の役割をさせれば、遊びとしては理想の形になるのかもしれない。