今、あまりにも当たり前に日本語という言語を使用しているので、
「私には元々日本語が備わっていたのでは」
などと錯覚してしまうのであるが、もちろん、生まれた当初は日本語なぞ分からなかったはずだ。
では、日本語を習得するまで、赤ん坊は言語というものを持っていなかったのかと言えば、別にそうでもなかったというような気がしている。というより、そういった、
「何らかの言語を習得する以前に、元々備わっている言語」
というものを予め持っていないと、日本語の習得など不可能であったと思うほどだ。
「おはよう」
は、朝の挨拶。朝の挨拶は、
「おはよう」
だ。というように、意味を言い換えに拠って表すことに慣れているから、それで説明が足りていると思ってしまっている節があるが、初めて日本語を習得しようとしている人には、それでは全く何にも分からないはずだろう。
しかし、現実として、何の言語も備わっていないはずの赤ん坊は次第に日本語を習得していく。何故だろう。それは、既に感覚や感情という、言語以前の言語が赤ん坊に備わっているからではないのか。
『ああ、あなた方が言っている「嬉しい」というのは、この感覚に対応しているのね』
ということを、記号としての言葉に拠らずにキャッチしているから、
「うれしい」
を、言い換え無しで理解出来ているのではないだろうか。感覚や感情が、母語の母語なのではないだろうか。