NHKで、10月に「ケンブリッジ白熱教室」という番組がやっていまして(全4回)、私はそれを見ていたのですが、最終回の「フランス哲学的幸福論」の中で興味深い話がありました。
この講義の主役である教授が、まだ青年期にハワイで過ごしていたころのことです。ある日、教授はハワイの精神科医と偶然出会います。精神科医は教授に、
「あなたはどこからやってきたか」
と尋ねたので、教授は、
「イギリスです」
と自らの出身を答えました。すると精神科医は、
「あなたは幸運ね。例えあなたが惨めであったとしても、イギリスではそんなこと誰も気にしないわ。反対にハワイでは、人々は幸福であることを期待されているの。」
というようなことを教授に言って、その上で、
「ハワイというのは最低な場所だ」
と重ねて言ったのです。それはつまりどういうことかというと、地上の楽園のように考えられているハワイでも、実は世界のどの場所とも大体同じ比率で鬱状態の人が存在するらしいのです。これには教授も驚きました。その上、精神科医が言っていたように、ハワイの人々は、幸福であることを期待されているがゆえに、鬱になったときに、「鬱であること」にたいして罪の意識を感じてしまい、二重に苦しまなければならないんだそうなのです。それゆえ精神科医は、
「ハワイと言うのは最低な場所だ」
と言っていたのです。
「暗く生きる、陰気に生きる自由」
が無い、つまり、
「陽気の強制」
があるのだと思いました。
私は、よく考えてみれば当たり前の話なのですが、ハワイの人々が「二重の苦しみ」を背負っていることに少し驚きました。やはり、観光地としてあるいは地上の楽園としてしか見ていなかったということなんですね。直接「陽気であること」を強制してはいませんが、間接的に私も、地上の楽園などのイメージによって、「陽気であること」を強制してしまっていたのだという事実を受け止めなければなりませんでした。
この教授のエピソードが示していることは、逆説的ですが、
「幸福であるべき、幸福であらねばならないという信念それ自体が、そもそも不幸をもたらしている。」
ということです。
幸福を感じること、陽気に過ごすこと、実に結構です。私のような、とても陽気とは言えない人間であっても、陽気に過ごす一瞬間、一日というのはあります。ただ、それが「陽気であるべき」という「義務」に変わってしまった瞬間、私のような人間はもちろん、本来陽気である人まで、それが重荷になってしまいます。
元来人間の生というのは、自分一人ではどうにもならない不条理に囲まれていますから、「常時陽気であれ」というのは土台無理な話です。そこへきて「幸福であらねば、陽気であらねば」と決めつければ、現実と信念との間の溝は深まり、絶望が大きくなるばかりです。
ですから、「幸福」「陽気」といったような、一見良いことの塊のように見えるものであっても、「義務」にしたり「強制」したりすることは良くありません。