ある人と初めて対面したとき、あるいは種々のメディアを通してその人を初めて見たとき、皆さんは、
「あー、なんとなく好きだ」
「あー、なんとなく嫌いだ」
というような判断をしていますか? 私は大体、
「なんとなく好き」
「なんとなく嫌い」
「まだよく分からない」
といったような判断をとりあえずしています。とりあえずと言ったのは、第一印象時の判断とは違った感情を後々に抱くことがあるからです。例えば、
「なんとなく好き」
「まだよく分からない」
この二つに関して言えば、後々好きにも嫌いにも、どちらにも転ぶことがあります。
ただし、
「なんとなく嫌い」
については、後々まで判断が変わることはほとんどありません。「嫌悪感」というのは意外と正確です(笑)。
そして、上記三つの判断に加えてもう一つ、これは判断と言っていいのか微妙なところなのであえてここまで挙げなかったのですが、初対面の人に会ったときあるいは、初めてメディアで見たときに、好きだとか嫌いだとかではなく、ただただ、
「ギクッ」
とするだけのときというのがあります。そういうときには、「好意」とも「嫌悪」とも言えない、一種の「衝撃」みたいなものを感じるのです。
こういった、何か今までに感じたことのない「衝撃」を自分に与える人に出会った場合、私は、どうしたら良いかわからずに、とりあえずその人のことを自分から遠ざけてしまいます。自分の中で受け入れ態勢が整っておらず、処理しきれないからです。そして、なまじ遠ざけてしまったばっかりに、自分の中で、
「遠ざけたってことはその人のこと嫌いなのか? いや、嫌悪とは何か種類が違うような気がする、でも・・・」
と考え続けるループにはまってしまいます。
そんなこんなしていると、あるとき、遠ざけていたはずのその人に、ふとしたキッカケでスッと、自然に引き寄せられるタイミングが訪れます。そしてそうなったが最後、私は、遠ざけていたはずのその人に急にガッツリ心を掴まれ、
「ものの見事に魅了されている」
のです。
こういうことを何回か経験していると、
「ギクッ」
という衝撃は、「嫌悪」ではなく、「惹かれる予兆」なんだということが分かるようになりました。上で述べた、「一旦遠ざけて、嫌いなのか、はたまたそうでないのかを考えるループに入る」という状態は、どうやら受け入れ態勢を整えている時間らしいということもまた分かりました。
そして、私にとって、この
「ギクッ」
と感じる出会いは、人生において、後々特に重要な出会いの一つに必ずなってくるということにも気付き始めました。
その最たる例が、今は亡き立川談志師匠です。存命のときから、その存在は知ってはいましたが、そのときやはり、
「ギクッ」
という衝撃を感じたためか、そのまま帰らぬ人となるまで、私は談志師匠を自分から遠ざけてきました。
談志師匠亡き後、案の定、スッと引き寄せられ、ガッツリ心を掴まれてしまったまま、今に至ります。
何故、生きているときに「惹かれている」ことに気づかなかったのかという後悔は少なからずありますが、それだけ出会いの衝撃が大きく、帰らぬ人となったことである程度の距離ができて初めて、自分の中に受け入れ態勢が整ったのだということだと思っています。
最近でいうと、坂口恭平さんがその例にあたります。初めて存在を知ったのは、TBSの深夜番組「オトナの!」に出演しているのを偶然テレビで見たときでした。その番組の中で坂口さんは、自らのことを「新政府総理大臣」だと名乗っていて、私が言うのもなんですが、
「この人は頭がおかしいな」
と率直に思っていました。ですが同時にやはり、
「ギクッ」
という衝撃を感じていたため、例によってあえて自分から遠ざけてきました。そして、遠ざけていたことも忘れて、特に意識もしないで暮らしているときに、またスッと知らぬ間に引き寄せられて、急に坂口さんの本を読みたくなり、また例によって同じように、本を読み始めたときには既にガッツリ心を掴まれていました・・・。
こういった「惹かれる予兆」に気づいたこと自体は良かったのですが、気づいたからといって「一度遠ざけて考える」ループの時間をすっ飛ばせる訳ではないというのもまた興味深いところです。それに、ループの時間を簡単にすっ飛ばせるくらいの衝撃度ならば、そもそもそんなにその人に惹かれていないということかもしれません。