<160>「幸福ですか」

 人物について間違うということはない、お前は分かってるなあ、という表現のされ方に対する違和感、本当というものの頼りなさ・・・。こういうことをよく考えるが(以前に書いているが)、幸福を目標とするという話も、同じ疑問の範囲に属する。

 あなたは幸福ですか、ということが尋ねられる。それによって幸福であるとか不幸であるとか、どちらとも言えないとかの回答が出てくる。ああ、幸福だ(あるいは不幸だ)と感じているんだねえ・・・。この過程の何か、あるいは全部がおかしくはないだろうか。この質問を受ける立場になって考えてみる。

「あなたは幸福ですか?」

・・・。幸福かどうか、率直に思うところを答えればいい。そりゃそうだ。しかし、この質問の前に立たされるとき、あるいは答えた後にいつも、

「幸福だと答えても不幸だと答えても同じことだ」

という感想を持つ。それは、幸福だとか不幸だとかいう言葉が漠然としすぎていて、よく分からないからだ。はい幸福です、いいえ不幸ですと答えてみたところで何も、本当に何も答えられていないような感じがする。私の気持ちは、これらの言葉では全く表現できない。幸福ですかと尋ねた人と尋ねられた人、そのどちらもがこのやりとりからは全く何も掴めなかったのではないか。

 生というのは揺れ動くものだから、問題が分かりにくくなるのかもしれない。しかし、死んでいった人を思い返してみたところで、幸福だっただろうとか不幸だっただろうとかの分け方はとても出来ない(分けるのが可哀想だからという意味ではない。技術的に不可能だという意味だ)ことを感ずるだけだ。おそらく、人の一生を測る尺度として、幸不幸は適切ではないのだろう。それは生きている人を見る場合でも同じことだ。そもそも人生に尺度というものを持ち出すことが適切ではないだろうことを考慮しても、なおその上で特に適切ではないような気がする。すると、それを目標とする考えは、当然こんがらがるだろうことが予想できる。