<346>「枝分かれ」

 分かれてゆく。一体の中心となったらここはどこなんだ? 考えたこともない者どもの尋常な視線を受けて緩やかに方向が変わっていく。それが先だ。俺をここから追いかけているのは誰だ。分裂の空中、優しげな笑みを差し、翻りつつ昇っていく。ぶざまにあちらとこちらとが決まっていき、息を切らし、細い細い枝の先で始まったものは想像を超えていたのだろうか、否、想像というものの及びもつかないところで新たにまた分かれてゆくのだと言ってもいいだろう。観察不足だ。分かれてゆくままにまた任せたとしてそれはここで見極めるべきことでもあるかのようなふりをしている。もう少し帰ってみよう、何かがひとつのものを作っているのだから。まあ、先の先まで行ってみたとして、そこにひとつのものすら無くなってしまうかと言えばそうとも言えないのだ。

<345>「人と法則」

 そこにシステムを見ることが出来るだけであって、システムそのものがそこに存在している訳ではない。それをごっちゃにして、システム通りに動かないのはおかしい、その通りに動くよう努力しなければならないという話になると、何かおかしくなっていく。どう動くのかは基本的に自由であり、痕跡の数々を勝手に結びつけて作っているシステム、そこに無理やり見ているシステムに合わせなければいけない理由などない。勝手に見ているシステムを勝手に不変のものだと思い込んで、人間の方がそこから、「誤って」ズレていっているように考えるのは、物の見方としてはマズいと言わざるを得ない。まず人間が各々、目的を持って、あるいはなんとなく動くという事実が前にあり、その痕跡を追ってみると、どうやらこういう法則があるらしいと判断するのが後にあるので、それは前にもならないし中心にもならないのである。何か在るべきところから「ズレて」動いている訳ではないのだ。

<344>「贈与と交換」

 「これは贈与ですよ」

というのは建前で、実際は交換であり、もらった瞬間からもう、何かを返さなきゃいけないと考えなければならなくて、また仮に返さないでいると、贈与をしたはずの相手は、

「何も返ってこない!」

「あの人はこういうとき何も返さない人なのね」

と言って怒り出す・・・。こういう馬鹿々々しさというか、面倒臭さが大嫌いだ。

 贈与なら贈与で、送った瞬間から送った事実自体を徐々に忘れていくべきだし、交換なら交換で、渡すときに最初に、お礼に何かを返してほしい(何故なら交換だと思ってこれを渡すのだから)という類のことをしっかりと言うべきだ。そうやってシンプルにやっていけばいいではないか。

 建前だけの贈与の何が嫌いかって、気前が良いようなふりをしているところが嫌いなのだ。贈与なんだから、何かを返すとかそんなことは全然気にしなくていいし、こっちでも期待していないから大丈夫だよ、というふりをしていい格好をしたくせに、その実何かの見返りがないと、不機嫌になったり、相手を悪く言ったりする。そして、そうした振舞いをすることによって、相手に、

「その人には、次から『贈与』に対するお返しを、『必ず』しなければならない」

と思わせておいたくせに、その流れで何かしらのお返しをもらうと、

「ええ、全然良かったのに」

とまた、最初から自分が行っていたのは純粋な贈与であったかのようなふりをする。こういう汚さが大嫌いなのだ。

<343>「尊重か無関心か」

 尊重と無関心は紙一重であるというか、ひとつの器の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていて見分けがつきにくい、あるいは既に何か混ざり合った末のひとつのものとして存在しているような気さえしている。

 他人を尊重していると言って、自身の無関心をなんとなくごまかしてしまうことも出来るし、関心がない関心がないと頻りに言っていたものが実は尊重であったりもする。先述したように、尊重するということは無関心であるということをいくらか含むのではないだろうか(そのものか?)。いや、そうではなくて、関心がありながらも、変に出しゃばらないで退くのが尊重するということなのか。しかしそれが、他人に見分けがつかないだけならまだしも、自分自身ですら、その内部で起きているのは、関心をぐっと抑えたが為の尊重なのか、そうではなくて、無関心故、結果的に尊重したようになっているのかの見分けがつけにくい。

 他人が、こうこうこういうようにしようと決めたんだ、と言ってくる。あるいは決めたいと思っていると言ってくる。私はそこで、他人の大事な決断、最後の最後の決断に介入する権利、出しゃばる権利は持ち合わせていないと思うから、あなたの納得がいく形で決めたらいい、と言う。他人が何かを決める、決めようとしているときにはいつもそういう態度で応じるのだが、言った後で、あれは尊重だったのか無関心だったのか、同じことなのか違うことなのかとぐるぐる考えている。

<342>「無関心であること」

 無関心であることは罪である、無関心が人を殺す・・・。なるほどそれは間違いではないのだろうし、そういうところも実際あるのだろう(ただ、全面的に合っているとは言えない)。では、翻って関心は人を殺さないかと言えば、殺すのである。しかも無関心と同じか、あるいはそれ以上にである。

 無関心というのは、勿論負の側面もあるが、それが無ければ生きられないぐらい大事なものでもある。自分自身の無関心にも支えられているし、他人の、自分に対する無関心にも支えられている。もし、自分の内に無関心というものを持つことが出来ず、他人の、自分に対する関心も尽きることがない世界というものに居たとしたらば、それは正真正銘の地獄にいることになり、発狂してしまうか死んでしまうかするしか逃げ道はなくなるだろう。想像してみてほしい、生まれ出た瞬間から死ぬ瞬間まで、知り合いの人からもそうでない人からも関係なく、延々と自分に対して関心が降り注がれ、それに対してこちらは無関心で対応するということが全く出来ない状況というものを。しんどいとかで表現できるレベルの状況ではない。

 大事なものであるにかかわらずあまり意識されないのは、関心というものが、積極的に何かを防いでいるのは見えやすいのに対し、無関心というものによって、何かに関与しなかったことが悲劇を防ぐ結果になったというのは見えにくい、あるいは全く見えない(結果としてあがってこないものだ)からである。無関心がこれだけの人を救いましたよ、というデータはないし、示せないのだ。また、単純に、無関心は感じが悪いということも関係してくる。これは無関心の欠点というか弱みなのだが、それ自体感じの悪いものを大事なものだと思ってもらえるように持っていこうとしても、なかなかそれは難しい。愛憎劇の末の殺しを報されて、ひどいとかこわいとか許せないとかの感想を抱く人はあっても、何か感じ悪いな・・・という感想を抱く人はまずいないだろう。しかし、愛憎劇を演じる人物の片方が、ひどく無関心であったがために、殺しまで発展しなくて済みましたよ、という結論が届けられた場合、ああ、良かった良かったという感想を抱く人ももちろんあるだろうが、何か感じ悪いなという感想を抱く人もいるのである。そう、殺人が防がれていようが、こちらにはいるのだ。この上、相手の無関心にぶつかったもう片方が、そのことによってひどく衰弱したり、最悪の場合自死を選んでしまったりすると、そのときに周りの人間が感じる何とも言いようのない不快感、憎悪というのは、末の殺人のときの比ではなくなる。

 無関心がないと生きられない、それは知っている、無関心はデータに出てこないだけで、沢山の人、物事を救っている、それも知っている、ただ、知っていたところで、無関心に何らかの感じ悪さを覚えてしまうのもまた、どうしようもない事実なのだろう。感じ悪いなあ・・・という思いを味わわされるより、ひどいとかこわいとか思えている方がまだ分かりやすくて楽なのだ。

<341>「乱れ走る」

 ねえ、平坦ね。あまりにも平坦じゃない? どうしてそんな顔して怒るのかしら。優しさが急速に巡って酔ってしまうのね。関係ない? そう・・・関係ないのよ、アハハ。ねえ、もう一度取ること? いいえ、取らないわ。強引な逃走に跡も何も見ないつもりですもの。嫌だ、眠らないわ。眠ったっていいじゃない。あたたかな私じゃなくって? そう・・・。ひとつ音頭を取ってみましょうか。霧の晴れるのを見るの、いいえ、見るのよ。落下するものが軽さに取って代わられたってそんなことは大したことじゃないわ。ねえねえ、大それた期待だこと。もう! まるで私が無理やりに走らせたみたいじゃない! そんなのどうにだってなるわ。少し水を・・・。流れに映るのがあなただと言ったってそうは怒らないわね? あら・・・? そうではないのね、下手に見るよりはいくらか良いのだから。渡って行ったっていいのよ。

<340>「染みのなかで響く声」

 何だ、部屋の中をぐるぐるぐるぐる回って、制したい気持ちがまるで濃厚なケーキか何かのように全身を経巡ると、早く溶け出したいような様子で椅子に跨る。跨り続けて説明を必要とするのだ必要としたいのだが、私に解決する術は残されていない。悲しいかな優しい涙はそこでいつまでも生暖かさの代わりに留まっているのだ。どうしてだ、早く染みのようになってしまいたいが、これはいつ頃からの染みだ。なかなかの汚れを表しているように思えなくもない、呼ぶ声もない。低調なリズムでひっくり返りまたひっくり返りすると、肌を触るだけ触るような冷たい風が遠慮がちに現れた。気にすることはないよということは掛け声なのだろうか、よいよいよいよいよう、ちょっと待ってどっと溢れるぞ。背けた目が捩じ切れていく深さはそれほどでないが、感動した! 俺の後ろで感動しているぞ! のっしのっしやたらめったらのっしのっしとそれは不愉快な甘みであって何でないのか。他に何があると問われないでもない空間で行ったり来たりするものには違いなかったが、これでどうだ! いや・・・。