<339>「ただ待っていた」

 どこへ訪れるか、何かを待っているような人がひとり。何だろう、停留所などの、待つに相応しい場所にいる訳でもなく、ただの道に、そりゃあ居てもいいのだが、誰かを何かを待つというのにはちょうどよく相応しくない場所にいる。待っているのではなく、止まっていたのだろうか? そしたらば、進行方向を向いている状態で止まっているのが自然だと思うが、横を向いていた。むろん、横を向いていようがそれは中途で止まってしまったという事実の否定にはならないだろうが、はて、止まっていることが何かを待つことだとしたらどうなのだろう。止まることによって、通常何を待つのか。具合の良さ、感覚の良さを待っていて、具合の悪さがとりあえず流れてしまうまでは、そこに止まっているということもあり得る。何かも待つためとも思えない場所で、進行方向からも身体をずらして待っていたら、やはり変であろうか。それほど変ではないから、私はんん・・・と思いつつ素通りしたのではなかったか。話しかけられるのではないかなどという要らない緊張感を少しだけ育てて、なるたけ歩くスピードを変えずに通り抜けたのではなかったか。安心していいのだろう、やはり待っているのだ。何かを待っているときだけじゃなく、ただ待っていたっていいではないか。むろん、ただ待っている訳ではないのかもしれないけれど、ただ待っているということがあったっていいということなのだ。何かがなくてもいい。ただ待っているからこそ、場所も、進行方向も関係がなかったのかもしれないぞ。

<338>「市街になりそこねた風」

 街角になりそくねた風、その夕べ、にれーっとした道を見渡すと、あれ、感情満載の行進が、左へ寄り右へ寄り、飽きることなく両の手を・・・。目には甲乙つけ難い力。夢の先まで後戻りし、無警戒、堂々巡りの回転扉に優しい挨拶を託し、息せき切ってゆく。諸々のほつれをただに見る訳にもいかず、けろっとして、けろっとして、偶然通るシティ、シティ通りの角まで埋める不健康な大群が、大体のところでいずれかの歌を歌ってゆく。朗らかさまでが真似されなくともよいのだ。そこで二頭の馬を呼び、有名になる角を曲がる。引き返すほどに状態はよくなったのだ・・・。

<337>「とらえられる」

 真剣になるのは、なにも真面目くさっているからとは限らない。真剣にさせずにはおかない対象があり、真剣にならずにはいられない空気があり、そこに入るタイミングがありと、別に楽しい訳でもなく(本当か?)、苦しい訳でもなく(本当か?)、そこだけに視線が集まり、やけに身体がひと固まりのものとして機能し出すかのようであって、真剣になっているというよりは真剣にさせられる、真剣の方で捕らえていて、私は捕らわれるがままだという方が正確な気がする。

 よって、真剣は強いることが不可能なのではないかと思うのだが、

「真剣になれ」

「真剣にやってみろ」

と言われても、真剣の方で捕らえるつもりがなければどうしようもないのでは・・・。真剣はどうも、なってしまう類のものだという気がしてならない。いつの間にのめり込む、休憩時間のサッカーと野球の放送と魅力的な文字列といやらしい身体となかなか汚れの落ちない古い靴・・・。

<336>「遊び」

 遊び(遊戯から、余裕などのことまで含める)を取り戻すということにも当然興味があるのだが、遊びが失われていく過程、失われていくこと自体にも興味がある。ふざけているだけでは駄目かもしれないが、遊びがなければ物事は硬直してしまい、上手くいかなくなる。しかし、意図せずして真剣な努力は、知らず知らずのうちに遊びを追い出してしまうことがある。遊びをなくすように動いているつもりはないのだが、方々で詰めていくうちに、気がついたら遊びの領域が全くなくなっているようなことになるのだ。

 まず初めに、遊びでしかない時期があり、しばらくすると、法則に縛られるのか、秩序立てていかないことにはその先がないからなのか、急激に遊びの領域が狭くなる。そしてそこを突き抜けた先にはまた、遊びが拡がっている。この、開いて閉じてまた開く運動は、必然なのか、つまり開きっぱなしではダメなのかどうか、ということだ。一旦、必要があって閉じているようにも思えるし、ただただ圧倒されて硬直してしまっただけのようにも見える。いずれにしろ、ただ遊びであった時期はともかく、組み立ててガチガチになっているところへ、あえてまた遊びを入れることの困難は相当なものになっていると言える。突き詰めるということがまず、遊ばないということと密接だからだ。

<335>「点を増やす」

 何かを学ぶとき、ひとつの本で済ませようとしてはダメだ、というのは、別に怠けているからだとか、ケチだからとかそういうことではなく、連関させないと物事はよく見えてこないということなのだ。あっ、ここで今見ているのは前にあっちで見たあのことか。あっ、そっちで見ていたことが、ここでいうところのあれなのか、というように、あちこちに新たな点が増えていってそれが繋がることによって物事の姿はよくよく見えてくるようになっているので、ひとつだけでその対象をよく見てやろうとしても、それでは対象の姿はぼんやりしたままだし、どこからどこまでが範囲内なのか、形がどのようであるかなどがよく分からないままということになる。バラバラの点を結んで何かを理解出来るということは、つまりそこに何がしかの中心があるということだが、中心の中に特別何かがある訳ではない。とっくに忘れていたと思った事柄が、他の同じような物事に触れることで突然記憶に甦ってきて驚いたりもするが、とにもかくにも点は多い方がいいと思うのである。分かるとは連関だ。

<334>「不透明な空間の熱」

 心地良さと心地悪さが速やかに入れ替わって渋滞を作らない。何かが通り過ぎた感触と、興味のなさそうな風が流れ、捉えられたものを放り出す。いつまでも立っていてもいいが、そこには何も、本当に何もない。仕方なく、心地良さの痕跡だけを辿ろうとするが、反対のものとあまりにも密接で、それもあまり上手くいかないのだ。当然の如く晴れ、しかし何かしらの重さがあり、末尾に対しての警戒心は募る。焦るな、焦るなという囁きをよそに、一層の努力と出鱈目が起こり、場所を奪い合い譲り合いしいしい、不透明な空間をいやらしい熱で満たす。

 要請不可能な曲がり道、触れてひやりとし、またわけもなくざらざらと・・・。休憩においてひと唸りする風は、渋滞解消の原因であることを知らぬ振りしつつ、強くなったり弱くなったりしてみる。

<333>「ずるさと無縁の場所」

 偉いねえと言われる立場にいることにも、言われない立場にいることにも、同じだけのずるさがあって、それをお互いで承知しているから、立場の違った者同士で会ってもただヘラヘラし、ごまかし、お茶を濁すだけなのだが、どちらかの立場にいればずるくないと思っている人がいる。ずるくないと思っているからこそ、その立場を択んでいる人がいる。そうすると、当然の如くずるいという責め方をしてくる。お互い様であるということが分からないと厄介だ。そうかい、あなたはずるくないのかい、結構なことだよ、ねえ・・・。ヘラヘラしないということは、ある意味コミュニケーションを取る用意があるということだ。ずるいと一言二言やらないと終わらない、それまではヘラヘラしないという姿勢か。どこの視点からものが語られているのだ。ずるさと無縁の地点を見たことがない。占めていると信じているその場所は本当にその場所そのものか。よく見ると、左右逆であったり、形は同じでも中身が違ったりしないか。玄関だけ同じ姿であれば、同じ家なのだという主張は面白い。聞いてなかったのだが。