<2292>「『神経質問答』を伝える、薦める」

 ちょっと前の私なら、

「この本は強迫観念に悩まされる全ての人にお薦めできる」

と言っていたかもしれないが、今はそう言えない。

 というのも、本で治るぐらいならばまだ病は軽い(おそらく中井久夫さんの言?)というのと、この、タイトルにある『神経質問答』という森田正馬さんの本は多分に修行的な要素を含むものであるから、そういったものに嫌悪感がある人には入っていきづらい可能性があるということを考えるからだ。

 

 しかし、私はある種の強迫観念に悩まされる人にとって、この本は人生の末まで教科書として機能するものだと思っている。

 故に、

1.強迫観念が専門的な治療を要するほど重度でない

2.修行的な要素が含まれていても問題ない、最悪嫌ではない

という2要件が揃っている人にはこの本が、人生の教科書たり得る可能性があることをお知らせする。

 

 

 「気になることは気にすればよい」

 全部を紹介することは出来ないが、私が重要だと思ったところを少しずつ紹介していく。

 強迫観念の強い人は、他者から、気にし過ぎなんだよ、気にしなさんなと言われ、そうか気にしないようにしようと思い、また自分自身が自分へ向かって、気にしない気にしないという投げ掛けを行って、逆にドツボにハマるという経験を持っているだろうと思う。そういうときは、p46。

→『しかし、気になる人は、気にせざるを得ないのであります。なぜならば、気になるのはその人にとって、自分で意識しているかどうかに関係なく、必要なことであり、大事なことであるからであります。ところがそれを、「気にするのはつまらないムダなことである、気にしないようにしよう」とか考えるのが強迫観念の発端でありまして、「気にしないように」と努力すればするほど、ますます煩悶、苦痛が増してくるのであります。それで私は、「気になる人は気にすればよい」と教えるのであります。』

 自分で意識しているかどうかに関係なく、という文にハッとさせられる。

 

 「最善の知恵の出る境地」

あれは大丈夫かな、これは大丈夫かな、と、いつも不安にさらされているのは不愉快だ。なんとかこんな不安を取り除けたらいいのに、と思う。しかしそんなときは、ちょっと待って。p170

→『不安は私どもの精神の進歩発達とともに、ますます増すものであります。子どもの時はあまり心配ごとはありませんが、年をとればとるほど心配ごとは多くなるものであります。医者になっても、いろいろの病気のことを多く知れば知るほど、気になることは多くなり、貧乏な人より金持ちの方が心配や苦労が多く、学識が高まれば高まるほど疑いと迷いと研究問題は多くなるものであります。ニュートンも、自分の研究、発見は浜の真砂の幾粒かに相当するにすぎない、疑問はますます多くなるばかりであるといっています。エジソンのような発明家になると、発明したいことがいくらでも増してくるのであります。私どもは不安が多く、取り越し苦労が多いほど、多々ますます弁じて、はじめて人生の生き甲斐を感ずるのであります、そのときはじめて、強迫観念もなくなるのであります。』

 進歩すると、今まで不安に思っていたことを不安に思わないでよくなる、と私なんかは漠然と思っていたのだが、そうではなく、人間の発達とともに不安は増すのだと。そうしてその不安の増した先、深まった先にこそ、自在の境地があるのだということ。だから不安が増してくるのは、進歩発達しているならば実は当然のことなのだよと言っている。

 

 「事実に服従すること」「努力即幸福」

日常の物事への取り組み方はp139やp198を。

→『昼間一日働いて夜は疲れてねむくなり、彫刻をしても身がはいらない。それはその時と場合における当然の心身の状況でありまして、腹のへらないときに食が進まないのと同じことであります。何とも仕方のないことです。このときに、仕事に身がはいらなくてはいけないとか、食が進まなくてはいけないとか考え、自分で自分の心に反抗して自分の心をやりくりしようとするのを「心が内向く」といい、「自然に服従しない」というのでありまして、この反抗心が心の中の争いをひきおこし、強迫観念のもととなるのであります。』

 身体の自然に対してやる気とか気合で対処をしようとするところから強迫観念は出来てくるという。だから、

→『仕事に熱がなく、興味が起こらない時には、ただ規則に示されたとおりに、他人の真似をするとか、仕事のふりをするとかしておればよろしい。ただ、規則に従ってさえいれば、従順なのであります。まだ腹はへらなくとも、いり豆をちょいちょいつまんでいるうちに食欲がそそり出されるように、仕事でも素直にイヤイヤながらやっているうちに、ついつい身がはいって興に乗ってくるようになるものであります。このへんのことを体得することがだいじであります。』

 ここいらへんの話は作業興奮などとも通じるように思う。やる気でやろうとしない。そもそもやる前というのは、違う状態にこれから移ろうとするわけだから、面倒な気分が支配的であるのは当たり前であるわけで、こういった心の働きに逆らおうとしないことが肝心である、と。その気分のまま手をつけていくのだと。それから、

→『強迫観念の心理は、要するに自分の心の自然発動に対して反抗しようとするために起こる精神葛藤であります。人前で恥ずかしがってはいけない、物を汚いと思ってはいけない、死を恐れてはならない、腹だち、盗心、悪心を起こしてはならない、とかいって無理に自分の自然の心に反抗しようとするとき、対人恐怖、不潔恐怖、不道徳恐怖とかいう強迫観念を起こすようになるのであります。』

 大事なことなので繰り返し出てくるが、自分の心の移り行き、つまりは自然に従順に、決して逆らおうとせず、面倒だとか、怖いとか、いやだとか、とりあえずその気分は気分としてみとめて置いておき、一方で行動は具体的に、そのフリでよいので動かしていくのが大事なのだと。

 

 最後に、何故この本が人生の末までの教科書になりえるのかということ。

 私はこの書物に感化されている。大事な教えがあると分かる。

 しかしその都度忘れる。

 忘れるとはどういうことかというと、つい、気合や、やる気というものに自己を傾かせがちになることがある、ということだ。

 そこでまた私はこの本へ戻ってくる。確認して、改める。

 またやはりやる気の方面へ傾いてくる。そこで本に戻り修正する、という行いを繰り返しているのだが、この繰り返しはおそらく人間である間は一生行われることだろうと思っているからだ。

 だからこの『神経質問答』は、基本に立ち返る拠点としていつまでも重要であり続ける、と現在時点では思っている。

 私と同じような弱点があると感じている人には、この本は面白く、また面白くあり続けるのだと思う。

 

 

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こちらでも森田正馬さんのことが紹介されている。面白い。