<271>「自分の眼玉」

 本当の~は、などという限定のつけ方はケチなもので、あまり好きでないと、何度か書いたことがあると思うが、どうしてそういう限定をつけたがるかと言えば、自分があるものに対して抱くイメージ(人生とは、天才とは等々)と全く逆のイメージを抱いていてそれで良しとしているのが、どうにも我慢ならないからであろう。ならばそこで、逆のイメージを抱いているなんて我慢がならない、不快だ、と言ってしまえばいいのだが、そんな直接的なことは言えない。それをすると、あまりにも幼稚になってしまうからだ。

 じゃあどうするのかと言えば、逆のイメージを抱いている人は、本当のイメージに気づけていないという処理をすることになる。ただ、逆のイメージを偽物だとし、自分が抱くイメージを本当だとする根拠はどこにもない。そもそも、抱くイメージに、本当か偽物かという観念の入る隙間があるかどうかさえ怪しい。抱いてしまっている、どうしてもそういうものが浮かんでしまっている、このことは外からはどうしようもなく、正解とか不正解とかが出てこれる話でもないのだ。抱くイメージが、一体何の基準に照らしてなのかは分からないが、本当であってくれないと落ち着かないのは何故なのだろう。自分の目以外の視覚世界があるのは大変不安な、奇妙なことなのだろうか。それはそうには違いない。本当の~はと語ることは、自分の目玉だけに執着することなのかもしれない。