<1678>「過剰」

 ひょっとしたら、私はこの中で、生まれ過ぎているのかもしれません、、

 生まれ過ぎたから、次第に紛れて、

 それぞれで、時間を立ち上げ、、

 あちこちに、顔を出すものと、見えます、、

 だいいち、声がひろくあたり、、

 そのまま、ひろがり、ひろがり、、

 様子というものは、不安定に、揺れています、、

 

 不安定に揺れたもののなかで、生きて、、

 私は例えば、

 もっとごっそごっそと揺すぶり、

 粒や何かは全体に散らばっていた方が良いと考えますが、

 

 しかし、相変わらずほうけて、、

 道を、道を、先へ行かんとする、

 一日へ、また、生きて揺れた様子を置いていくだけ、

 日々の生活というのはその程度でよろしいものだと思いますが、

 ちからが入っている、

 気持ちが入っている、、

 最近、ちからや気持ちが入っていることなどはなんでもないことだと思うようになりました、

 というのも、動きが何であり、どれを重ねるかということの方がその人を作ると思うようになったからで、

 生き物の状態として、ちからが入っていれば不自由だということは分かるのに、

 どうしてそれを理想とするような、身体に合っていない状態を理想とするような、気持ちになるのだろう、、

 りきんでいない状態に置かれ続けるのは不安だというのが大きいのかな、

 苦しくないのは苦しいというか、、

 そういうとき、一呼吸置いて、上手く水を通すようにする、

 またこわばって、ほぐして、

 をその時々で繰り返していくのが当たり前なのかもしれません、、

 

 尽くす、という言葉が出て来ましたよ、

 (管理、という言葉も出て来ていたけれどもそれは少し脇に置く)

 出し切るっていうことでしょうけど、、

 これもなにかね、尽きたらやっぱり困るっていうのが先へ立つから、

 あ、そう、誰でもそうかもしれないけれども、

 他人が自分のためにりきみかえっているのを見るのはあまり良い心持ちがしないものですね、

 あ、そう、バッターに、打ち手に、

 「りきむな」

 って言うでしょ? あれは気持ちとしては分かりますよね、当然りきまないでほしいわけですけれども、、

 何かをしようとしているときに、何かをするな、という形で指示を出すと、これはちょっと出された方としては難しい、

 ちからをいれたいところですからね、

 「打つため、いいスイングをしてヒットを飛ばすためには、どこにちからをいれれば結果としてよろしいのか」

 とこういうふうに考えたら良いけど、正確性をはかろうとすると長たらしくなるからとっさは、

 「りきむな!」

 となる、それはそれで多分大丈夫、

 尽くして尽くして、という行き方は、なにか肌に合わないと思う、そうやって動いたら自身にどきまぎするなあ、