あれ、はしゃぎのなかを、順次、渡って来ていたのですね、、
あれ、はしゃぎの、
物事を、二重否定の仕方で、見極めること、、
長くは居らないだろうといって、、今すぐに切断しないこと、
流れを穏やかに、
移行を穏やかに、、
そんな方向性を持っていくのでした、、
見えていないものが進んでいる、、
どうかして、事の処理の仕方、
それを眺めているところから、来る、、
あれ、なにだろう、なにだろう、来る、
来た、ものを、着た、ところ、、
あなたには違う流れが、
それぞれにどうとどうと含まれて来ているので、、
ああなにだ、このような行きが、
はっきり映るので、
特に、特に、見えていないところの、巻き方を、、
感じないなりに、手を当てていてください、
と思うね、、
これが重なって、一体、目に見える形で、どこへ行くのかと、とうても、巻いている、、
巻いているものに、日、日、日、と、含まれているだけなので、、
私はどこかへ行く訳ではないんですよ、、
そこに居たまま、、
なにか居たまま、、
おそらく巻きの紋様が、、
彫られ具合が、、
よりアバウトなところが、、
あふれていて、
あふれたままの姿で、ありえている、、
ありえているものをそのままに見るったって、、
顔を眺めていても、
あれ、この人はこんな顔だったかしら、なんて、
分からなくなるところがあるものだからさ、、
それを順次正確に口にふくもうったってそうはいかない、、
程度をわきまえるなどという話ではなく、
日、日と重なるうち、ここまで巻いてくるものが異なるか、という、、
当然の驚きに、身体を浸けているほかはないでしょう、
否定から領域が照射される、、
その程度のものごとでべつに構わないのだ、ということ、、
考えてみると、この傾向性を持ち合わせて、、いるのを、
どこの時期から、と、はっきり言うことは難しいなあと思う、、
それでも、手をひかれて、、豆腐屋の香を嗅いでいるときからもうずっと、そうじゃないかしら、
という、気がする、、
あたしが不思議でなくて何が不思議だろ、、
分かっている物事は、少ないのではなく、
感知することが難しい、、
だから、、探り当てるというほどのこともないが、、
時折手を置いたままにして、
触れていたら、いくついくつ、などでは言えないところのものが、よく分かるだろうと思うのだし、実際にまたそうだ、、