そのままに出合い、そのままを見、良きところで去る。そしてまた赴き・・・というように、人の作品などを経過出来ないのは弱さか、辛抱のなさか、迂闊なのか、それしか選択肢がなかったのか・・・。
「これは一体どういう意味だったのだろう? 何を伝えたかったのだろう?」
そんな決まり文句で始まってい、終わってい、その流れが全体を貫いてい・・・そういったことにすごくうんざりするのだ。個人の残したものに対する社会の接点の持ち方は、それしかないのか。つまり意義という側から寄っていかなければ気が済まないというよりは、意義というもので寄っていくことが即ちそれ社会なのだ。つまらない。虚しくして見るということがない。それだからやはり個人でいなければならない。というのは、社会の目と同じになったつもりにならないということだ。そんな目を持たないようにするということだ。