このことから、どうせ死ぬんだから、まあまあ焦りなさんなという語りかけが、有効に響くこともあれば、そうもいかずに空しく響いてしまう訳も分かってくる。生きているのが嫌なだけなら、その通りどうせ来る寿命を待てばいいのだが、生に耐え切れなくなっただけでなく、生死という枠組みそのものが嫌になっていたとしたら、そのうちどうせ死ぬことは何の慰めにもならない場合がある。というより、昨日も書いたように、自死はそういう運動、枠組み自体から脱出しようとする運動なのだと考えた方が良さそうだ(結局、脱出しようとしても、死ぬか生きるかの二択しか待っていない訳ではあるが)。何故なら、それこそ生きるのが嫌なだけなら、焦らずにそのうち死ぬのを待てばいいだけのところへきて、それはわざわざ自分で命を絶とうとしてしまう動きなのだから。