<198>「太陽の無関心」

 施しを受けても特に何も言わず礼もせず、施した方もそれを当たり前と思っている・・・。極端だが、ここまで行かなければならない、というより、ここまで極端でなければならない。おかしなことに見えるかもしれないが、自然がまさに自然に行うような施しに近づく、同化するためには、ここまで徹底しないことには・・・。そうしないと、いつまでも恩を施せるようにはならない。しっかりと感謝する、それを示す、というのは確かに美しいかもしれない。それが当たり前の基準だろと思うかもしれない。しかし、施された側が丁寧に感謝を示し、施す側も、まあまあと言いながら、内心ではそれぐらいの感謝が示されるのがまあ普通だと考えていると、

「恩は、着せるものである」

という認識を強化してしまうことになる。恩を施したぞという気持ちを保たせてしまうのだから。

 着せるぐらいであれば、恩など施さない方がいい。一番良いのは、自分が恩を施していることなど知らずに何かを施せている状態(太陽などの自然と同じレベルにある)。次が、施したことをさっさと忘れている状態。最悪なのが、いつまでも施したことを憶えている状態だ。恩を施したことをいつまでも忘れないでいることによって、施した側にも施された側にも不満は溜まる。その上でまた着せるようなことをしていくと、不満はどんどんと大きくなって増えていく。着せることをやめない限りこういうものは次へ次へと受け継がれて膨れ上がっていくだけなので、それなら何の恩も施さないでいる方がよっぽどマシだということになる(不満が増えないのだから当然だ)。修行において、感謝を示したりまたそれを期待してはならないというのは、口酸っぱく言われていたことではないだろうか。