瞬間々々がひとつの真実であるということは、まず意識が認めたがらないことではないか(その割に印象は強固なのだが)。私という存在、そこに何の統一性もなく、バラバラであるということをそのまま受け取らなければならなくなるから。悪しく、醜い様も、紛れもなく自分であるということを、正面から受け容れなければならなくなるから(その瞬間には、ふとした気の迷いがあっただけで、落ち着いていて穏やかである方の自分だけが本当だと思っている方が楽だ)。
脈絡のなさ、物語のなさ、目標のなさ、こういうものに対する嫌悪は皆、瞬間に対する(瞬間がそれぞれで独立した力を持っていることに対する)嫌悪ではないか。
どこかで読んだ話に、はるばる遠くから友人に会うために友人宅へ赴いている途次、もう目の前というところになって、気が変わったから引き返して、そのまま帰ってしまった、というものがあった。これは瞬間々々がそれぞれ真実であるということを考えれば、何ら、
「おかしくはない」
話である。しかし、そこで、
「おかしい」
と言うとき、言い表したかったのはそうではなくて、
「不快だ」
ということではないだろうか(勿論、私がそのような不快を感じることがないと言っている訳ではない)。