<191>「恩の困難」

 恩を意図的に施すことの不自然さ(故にやるべきではないという話ではない)、難しさを考えると、例えば托鉢などの修行は、施す側の困難の方が大きいように感じる。施すことも修行だ。同意した訳ではない招かれは、施す側がうんともすんとも言わず、施していることにすら気がついていないことをもってやっと納得できる。その間では関係は健全になる。しかし、勝手に招待されたあげく、施す側から、これだけのことをやったげた、あれだけのことをやったげた、それを何らかの仕方で返さない奴はちょっとね、予定はあるんでしょ?とやられれば、当然その間の関係は上手く行かなくなる。当たり前だ。こんな簡単なことを、おそらく頭では分かっていながら、身体ではいつまで経っても分からない(恩を施せるようになるのには時間がかかる、大抵は着せるだけに終わっている、というのはそういうことだ)。おそらく、何か施しを行うことには魔的なものがある。支配的な快楽を得られるが、自足することが出来ず、自然がまさに自然に行っている施しの態度とは随分かけ離れた態度で施しを行っているということがよく分かっている(半ば着せている)だけに、見返りの要求、何かを返してほしいという欲望は逆にヒステリックなものになっていく。