<166>「参加する姿勢を見ている」

 会話は雰囲気の確認、関係の深化が目的であるから、相手の話の内容をしっかりと聴く必要はない。むしろ、話の内容に拘りすぎると、会話は発展しない。大体が会話の出発点、きっかけとして出されるものに確実に返そうとすると、

「ああ、そうなんですか」

で終わってしまうようなことになる。それよりほか言いようがないからだ。この間こういうことがあったとか、ちょっとここがこうなんだよねえ・・・などという発話の「内容」に拘っていてはいけない。大事なことは、自分も参加することである。つまり、こういうことがあったという話題が提供されたら、その話の内容には適当に相槌を打って流しておいて、

「それならば、私もこういうことがありましたよ」

と、何かを提供し返していかなければならない。あ、今勝手に喋り始めちゃって、相手の言っている話を無視しちゃったかな、などと考えなくていい。それを考えると容易に参加できなくなる。

 この、参加する、自発的に何かを提供し合うことだけが、会話において唯一大切なことだと言い切ってもいいぐらいで、会話の当事者たちは、相手に、自発的な参加、提供の意思があるか否かということを主に気にしているように見える。そうすると、全く噛み合っていないのに、延々とお喋りが続けられる人たちがいる理由もよく分かる。究極のところ、内容などどうでもよくて、相手の参加姿勢が確認出来ればそれでいいからだ。

 であるから、こちらとしてはしっかりと内容を把握し、相槌を打ち、聴き洩らさまいと努めているつもりでも、それだけにとどまり、

「私もこういうことがありましたよ」

という、内容無視の遮断的介入にまで移行していかなければ、相手は、私に対して、会話をしようとしていない人だという印象を持つことになる。まあ事実、そのような発話の形が得意ではなく、かつ、思考の交流に比してあまり好いていないようなところがあるから、その印象は間違いとは言えないのだが・・・。