<132>「不可能性の豊かさ」

 何かの立場に立って語ることはつまりパターンの習得だから、習得の早い遅いはあれど、それ自体は別に特別凄いことでもない、考えることとも逆の作業だ。何にも分かっていなくともスラスラと延々に喋ることが出来る。そういうパターンの習得(それはどこに行ってもそうだ)ばかりであることにひどくうんざりして萎えてしまうのは子どもっぽいと言えるかもしれない、萎えていても気にしないのが立派な態度というものだろう。他人にしっかり説明出来れば、その人はその説明できた物事を掴めている、理解している、と言われるが、私は疑問に思っている、一から十まで全く分かっていないことでも、他人にスラスラと説明できる自信がある(そんなものは自信と誇るべきものではないかもしれない)。しかしパターンを経過しない考えというものがあるだろうか? あったとしてそれは重要性を帯びるのかどうかも。パターンというものを嫌がるのは私の勝手だが、さてひとたびそれを外すとなると、まるで考えというものが想定出来なくなることに驚く。そこで断絶、一瞬のきらめき、ただのリズムみたいなものから何かしらを、むしろ組み立てずにそのまま取ることを考えるが、それが続けばまたパターンになる。考えという言葉に囚われているのかもしれない。考えであってもいいし、なくてもいいし、一番退屈しないのは一番退屈なことだということも痛いほどに知っている、つまりはパターンの執拗さ、繰り返し繰り返し繰り返し、行って戻って行って戻って、戻って戻って戻って、一歩も動かないという動き、その不可能性が不思議と豊かに見えてくる。