<131>「圧倒されるときはされる」

 荒さと無関心、というよりは深い落着き、そういうものの同居する中で、普段は全く荒さの影響というものが感じられないところから(あるにはあるのだけれど)、何処まで行っても何があっても、項垂れるにせよ、激流に飲み込まれずにいられる、というよりそんなものに取り込まれるイメージすら湧いてこないのだよ、といって自信を持てているのだが、ひとたびキリキリと荒さが押し寄せると(どうして押し寄せるのかはよく分からない)、そういった思い込みや考えみたいなものが何の意味もなくなるというか、全く無効になってしまうことを感じて怖ろしくなる。自信というのはこういうところで持ってしまっても仕方が無いのだろう。それは、やると口で言っているだけの状態と似ている、もちろん、激流は押さえるし押さえられるのだが、流れが生じること自体はどうしようもない。であるから、落ち着いている状態にあるときに、それをそのまま自分の全体にまで拡大解釈し、いついかなるときも大丈夫だと考えるのはきっと、自信でも何でもないのだ、空想に近い。押さえるにせよ、押さえられないにせよ、まず飲まれる、行動は別として、内側がそれにより圧倒されるのはどうしようもないという、半ば諦めのような身の処し方が、自信そのものではないにしても、自信のようなものと呼べるものなのかもしれない。