<105>「同じ渦を辿る」

 記号とはラベルだ、いち早く辿り着くためにはとても便利なものだ、しかし、ラベルの一致によってそこに来たことを知覚するのではない、ぽっかりと開いた穴、そこに落ち込んで、同じ場所であったことに気がつくのである、だから厳密に言えば記号はいらない、しかし広すぎるからあれば便利だ、ただそれだけだ。それを取り巻く渦巻き、己が渦であることがどうして分からない、勉強が足りないからか、そうかもしれない、しかし勉強すれば分かる類のものでもない、そうかもしれない、自己は変容する、飛沫をあげ、回転し、後から後から新しい動き、流れ、置いてきたものはもう私ではない、しかしその動きの全体が私である、これがどうして分からない、中心には必ず穴があり、物質ではないその空虚、空白こそが私を定めていることが、どうも分かりにくい、それは紛れもない肉体を持っているからだ(ぶくぶくと湧き立っては消えて蒸発し、また中心から湧き立って来る、というような身体の在り方をしていたら、それが目に見えていたら少しは違ったかもしれない)、そして、肉体は固定しているように見える、つまり、移り変わらないただの容器のように・・・。いや、本当は分かるのだ、全部変わってしまっているのに、ああ、あのときの、久しぶり、とちゃんと気づくではないか、物が違うのに、アイツだと分かるではないか、何故それが分からない、理屈が積み重なればいいという訳ではないのだろう、延々と昇っているのに全く違うところへ向かっているような気がする、それではダメだ、自分も同じように動かなければ。つまり同じような動きで捉えなければ。分かるとはそういうことだろう。