<97>「べつもの」

 気がついたらいつの間にか、大分拡がっていたりいくらも積み重なっていることと、虚しいというのは交差するにはするかもしれないが、あまり関係のないことなのかもしれない、つまり、どうせ虚しいのになぜ積み上げられる?というのは問い方が間違っている可能性がある。どうしてそんなに拡げているのかを問われても、そんなことは自分自身でも全く分からなかったりするし、そもそも、言われてみるまで何かを積み上げていたことに全く気づかないことすらある。また、意識的にせよ無意識的にせよ何かを拡げている人がいたからといって、それだけを理由に、その人は本当の底の底では虚しいと感じてはいないということの証拠とすることはできない。何をしても虚しいとハッキリ知覚していたからといって、それを知覚する誰もがその場から一歩も動かない人になるとは限らない(何かを信じていなければ生きてはいけないなんて、嘘ではないだろうか?)。また、日常の送り方というか、日の巡り方からして、何にも拡がらないように、あるいは何にも積み重ならないように過ごしていくことは逆に難しい、動かずにはいられない、そして同じ場所を回らざるを得ない、つまり拡がりや積み重なりというのは動きなので、心持ちとは全然別のところで勝手に進んでしまっていたりする。虚しいという心持ちが起きてくるのは起きてくるので、そこが拡がっていようがいまいが、その心持ちが起こってきたときにはそれに覆われてしまう、そのときたまたま拡がっている場所を覆ったときに、

「はあ・・・何故こんな虚しい作業を続けてきたのだろう」

という言葉が口を衝くだけで、それは虚しさがただやり場なく拡がりを標的にしただけだ、これが仮に拡がっていなかろうが、虚しい気持ちは虚しさとしてちゃんと現れてくる。