他罰的機能は、存在するかのような顔をしているだけだと昨日書いたが、それでも一応法律や権力は、一種の暴力としての力があって、それを怖れる私はいる訳だ。
しかし、その機能の仮面を剥ぎ取って無力化してしまう、怖れを知らないように見える人たちがいることも、昨日述べたとおりだ。
そういう人たちは、
「失うものが何も無い、ある種無敵の人」
だという形容をされることもある。
ではそういう人たちは、形容される通り本当に、何の怖さも持たない無敵の人になってしまったのだろうか。怖れを抱くという気持ちを失ってしまったのだろうか。そうではないと思う。というより、むしろより怖い思いを抱くようになったんじゃないかと考えている。それはどういう怖さか。
「情けなさを失う」
という怖さだ。
「ああ・・・怖えなあ・・・。こんな場面に立たされると、まるで勇気が挫かれてしまう。情けねえ・・・」
という感情を失う怖さだ。
「それのどこが怖いのか」
と思われるだろう。しかし、社会を震撼させるような出来事にわざわざ出向いていくまでもなく、この怖さは誰にでも理解できるはずだ。
「納得いかない。周りが間違っている。ちゃんと意見しなきゃ」
と、ただ自身の主張を表明しようと必死にまくしたてていただけのつもりが、そんなに返されるとは思っていなかった周りの人々が徐々に怯え、怖い怖いというように情けない表情を浮かべていく様を見て、自分だけがひとり、
「情けない」
という表情を失っていることに気づく、あの、孤立した感じから来る怖さ。自分の区画だけが、情けないという気持ちで繋がる地続きの島からパツンと切り離されたかのような、あの怖ろしい寒さ。そういう、
「情けなさを失った」
ときの怖さは、純粋に、
「情けねえ」
と思っているときの怖さとは比べものにならない。孤立の深さが違うからだ。
情けなさから逃れたくて、敵のいない地平に辿り着いたのに、辿り着いた地点はよりひどい怖さに包まれていたとは、何と皮肉なことだろうか。