自罰しかない

 「こんな時間に映画を観ていて良いのだろうか・・・?」

平日の昼間、雪が降ったこともあり、普段より一層少なくなっているであろう客足の中、座席に着いた私はぼんやりとそんなことを考えていた。

 厳密に言えば、朝のバイトを終えた後ではあった訳だが、自身と同じ年頃の周囲と比較しての時間的な緩さが、それでも圧倒的であることに変わりは無かった。この時間に映画を観に来れる人はそうそういないであろう。

 しかし、何故周りと比べてそれを悪く思うのだろう・・・?平日の昼間に映画を観ていられるというのは、良いとか悪いとかの問題ではなく、ただの事実でしかない。でも・・・。と、こんなふうに、冒頭の質問を打ち消してはまた浮かび上がらすという作業を徒に繰り返しているその間、私はただひたすらひとりであった。

 「自罰しかないんだ」

ふと胸に浮かんできたのはそんなことだった。他人は、私の置かれている状況を見て批難も出来ようし、嫌味も投げられよう。ただ、それを受けて申し訳なく思う私がいなければ、罰は始まらないのだ。以前、『「罰が当たる」なんて・・・世間はそんなに甘くない』というものを書いたが、罰は、当たるものではなく、自身で、

「当てる」

ものなのだろう。なるほど、

「自罰しかない」

ということが、自由の出発地でもあるのか。

 ただ、

「自罰しかない」

ということは、怖いことでもある。怒ってくれる人がいないなどということではない。私は、度々その怖さを、いろいろな事件によって突きつけられてきた。

 私の住む社会には、一応の法律があるし、それから外れることを許さない権力もある。しかし、それら他罰(というものが存在するかのような顔をしている)的機能は、自罰しかないという事実の負の側面を全面に打ち出されたとき、あまりにも無力なのだ。

 「自分を罰せられるのは、つまるところ自分だけだ」

と深く気づいてしまった人に、

「はみ出ることに拠る制裁やら何やらの、全てを受け入れますよ」

とやられてしまったら、為す術がない。外から届かせられると信じた罰、他罰は脆くも崩れ去り、一向届かない。

 その怖ろしさが身に沁みたからといって、他罰的機能をいくら高めようとしても、自罰しかないという事実にはいつまで経っても届かない。というより元々届きようがないから仕方ない。他罰的機能が、ある程度のところまでの役割しか果たせないのは、いつの時代になっても同じことだろう。