会話が上手い人達同士で、会話が盛り上がっている場面を眺めていたら、いくつかのことに気がついた。
まず、私はいままで、会話をしている人同士の言いたいことが噛み合っておらず、
「これは行き違いが起こっているなあ・・・」
と感じた場合には、
「このズレを修正してあげねば」
と思って、実際に軌道を修正するという作業を行っていたのだが、その、バラバラになっていた線路を1つに繋げるような作業は、こと会話においては不要であるということに気がついた。
何故不要かというと、
「お互いが何か違うことを話していて、すれ違いが起こっているが、どうズレているのか分からない」
という状況で、当人たちが、話の折り合う点、終着地を模索しながら、なおも会話を繰り広げて行くという作業を行うことによって、会話自体が膨らんでいくということが分かり、そうすると、そこへきて私がさっさと連結を行ってしまうというのは、話の筋を通すことにはなるかもしれないが、会話自体が膨らんではいかないということが分かったからだ。
また、その、
「何だかさっきから、お互いが違うことを話していて、話が噛み合っていないぞ」
という状況それ自体が、ある種の「おかしみ」を生んでいることに気づいたことによって、余計に、その連結作業は不要だという考えを強くした。(あまりズレ過ぎているものは修正しなければならないが)多少のズレは、そのまま放っておいた方が、会話というのは盛り上がるし、膨らんでいくのだ。
そして、会話の上手い人達は、
「自分が会話したくないときには、徹底して会話に参加しない」
という特徴があることにも気がついた。
これは一見、「会話下手」な人間の特徴のようにも思えるが、「会話下手」な人間はむしろ、いつも、
「何か話さねばならない」
と思い過ぎてしまっているきらいがあるように思える。別に、会話というのはお互いが楽しむためにするものであるから、したくなければしなくても良いのであるが、そこをわざわざ義務として自らに課してしまい、結果「会話」が苦痛になるという循環を辿ってしまっているのが「会話下手」な人間の特徴だというような気がする。会話の上手い人達は、そこらへんの割り切りの上手さ、余裕の程度が「会話下手」な人間に比べて著しい。
私なども、比較的、言語という記号の意味をあまり問わない「会話」というのは苦手だと言えるが、
「会話をしたくないときには無理にしなくても良いのだ」
という、会話の上手い人達の姿勢を真似てみたところ、いくらか、「会話」に対する苦手意識が薄らいだ。