以前、『「幽霊がいる」というときの「いる」』で、現象として確かに起きていることが確認されなくとも、精神世界などと同じで、概念としてその人の頭の中に「幽霊」というものが確かに存在すれば、
「幽霊はいる(存在する)」
と言っちゃって良いのではないかと思う、ということを書いたのですが、それを自分で読み返してみて、
『なんとなく、「愛」と「幽霊」は似ているんじゃないか・・・』
ということを思いました。
どういうことかと言うと、「愛」は「幽霊」と同じように、現象として確かに存在しているということを証明することは難しく、結局はただの概念であるわけだから、「幽霊」と同様、「愛」というのは、
「確かにその存在を捉えられる人と、捉えられない人の両方が居て当たり前」
であって、その、
「人に拠って、捉えられたり、捉えられなかったりする」
という点において、「愛」と「幽霊」は似ているんじゃないかということです。
そして、私は、じっくり考えてみる必要もなく、まず間違いなく、
「愛というものを全く捉えられていない人」
です。反対に、幸運にも、
「愛というものをしっかり捉えられている人」
もいることでしょう。
しかし先ほど、
「捉えられる人と捉えられない人」
という表現を使いましたが、私のような、「愛」が一体何なのか全く捉えられていない人間と、反対に、しっかりと「愛」を捉えられている人はごく少数で、大半の人はその中間辺りに位置するのではないかと思っています。
何故なら、もし、「愛」というものをしっかり捉えられている人が多数存在するならば、しつこくパートナーに、自らを愛してくれているかどうか確認したり、相手を信用せずに束縛したり、やたらに他人に向けて関係を見せびらかしたりするような光景は、ほぼ見られないであろうと思われるからです(実際がそうでないのは言うまでもありません)。
また、もし、「愛」というものを全く捉えられていない人が多数存在するならば、恋愛風景など日常の中で、まるで目にすることができないだろうと思われるからです(実際は、関係が良好かどうかは分かりませんが、そういう風景をよく目にすることが出来ます)。
故に、
「全く捉えられない人」
と
「しっかり捉えることが出来ている人」
は少数で、おそらく、
『「愛」というものを捉えることが出来ていると信じて疑わないけれども、実際にパートナーに行っていることは、とても愛があるとは思えないような人」
とか、
『「愛」というものを良く捉えられてはいないことを、普段は知っているけれども、時々、これが「愛」なのではないかと、捉えられたような気になっている人」
などが大半なのではないでしょうか。