「善意の怪物」は私であり、あなたである~『人間の羊』~

 大江健三郎さんの作品に、『人間の羊』という短編があります。

 主人公の「僕」が、帰宅途中のバスの中で、酔っぱらった外国兵たちに難癖をつけられて、絡まれ、無理やりにズボンを下ろされ、下半身丸出しの状態で背を屈めさせられ、露わになった尻を叩かれる、という辱めを受けるのですが、それをバスの中で黙って見ていた「教員」は、「僕」がバスを降りた後、すぐに走って追いかけてきて、

「警察に行って話そう」

と言い、「僕」に執拗に絡んできます。「僕」は、この辱めを受けたことを世間に公表したくは無かったので、半ば強引に警察のところまで引っ張っていった「教員」が、警官の前で熱っぽく訴えるのとは対照的に、警官の前では頑なに口をつぐんでいました。

 被害者が口をつぐんでいるんじゃ話にならないから、話がまとまってから来てくれ、と警察に言われ、がっかりする「教員」の傍らで、「僕」は、もう家に帰って早く寝て、何もかも忘れたいと思って、さっさと家に向かって歩き出すのですが、意地になっているのか、「教員」はいつまでも「僕」についてきます。

 このままじゃ名前と住所を明かすまで、ずっと「教員」に付きまとわれるなと思った「僕」は、しつこくついてくる「教員」を思い切り突き飛ばして、駈け出しますが、それも束の間、「教員」に追いつかれて背後から肩を摑まれてしまいます。絶対に逃がさないというような様子で「僕」についてくる「教員」は最後に、

『お前は、(中略)どうしても名前をかくすつもりなんだな。・・・俺はお前の名前をつきとめてやる。・・・お前の名前も、お前の受けた屈辱もみんな明るみに出してやる。そして兵隊にも、お前たちにも死ぬほど恥をかかせてやる。お前の名前をつきとめるまで、俺は決してお前から離れないぞ。』

と「僕」に向かって言い放ち、この話は終わります。

 この作品を読んでいると、外国兵が怖ろしかったことなどまるで忘れてしまうぐらいに、「教員」が怖ろしい存在であったということが強烈に印象に残るのですが、それよりも怖ろしいことがあって、それは、この話を読んでいて、私自身に、

「教員の心理の動きが理解出来てしまう」

という事実があるということでした。

 この話に出てくる「教員」は、自分の信念を絶対に良い事だと信じて疑わない、それを通すためなら被害者の意向さえも踏みにじる、

「善意の怪物」

とも呼べる存在です。そして私は、この「教員」ほどのことはしなくとも、確かに、「善意の怪物」的側面を持っていたために、「教員」のしたことに対して勿論賛同はしないものの、

「この人のやっていることが理解できない」

とはならなかったのです。それが怖ろしいのでした。

 では何故、私は「教員」の行動が理解できないということにならなかったのでしょう。それは、

「良い事をやろうとしているのに、それが尊重されなかった」

時の怒りと落胆を実体験として知っていたからです。

 強烈な使命感や正義感などのいわゆる「善意」に取りつかれているときは、急激に視野が狭くなり、

「もう辞めてくれ」

と言ったのがたとい被害者であったとしても、

「ああそうか。私は良い事をしようとしていると思っていたけれど、被害者にとってはそれが好ましくなかったんだ」

ということに気づくのは難しく、大概が、

「良い事をしようとしているのに何で邪魔をするのか。しかもあなたは被害者でしょ」

という方向に思考が進んでしまうのです。悪い事をしようとしているときならともかく、良い事をしようとしているときというのは、自己が、他者に尊重されなかったことに腹を立て、怒りにまかせて暴走しているだけだということに気づきにくいのです。そのために、被害者さえも無視して暴走します。

 そして、そういう怖ろしい人が、この話の「教員」のように一定数いるというだけならまだしも、実際には、誰ひとりの例外もなく、「善意の怪物」とは表裏一体の関係にあるのだと私は思います。

 何故かというと、

「良いことをしようとしたのに、それが尊重されなかった」

というショックは相当なもので、そのショックに任せて誰でもあっという間に「善意の怪物」に変貌する可能性が高いと思うからであり、また、「善意の怪物」になっていることは、自分では気づきにくいという問題があるから、誰でも知らぬ間に、そこに足を踏み入れている可能性が高いと思うからです。

 また、自分が良いことをしようとしているときというのは、やけに自分の行動には自信があって、その異常性を指摘されればされるほど、意固地になっていくという側面がありますから、「善意の怪物」になり下がっていくことは、自分の行動に自信を持っている人にならば、誰にでも起こりえることだと思います。