森鷗外が書いた短編に、『かのように』という作品があります。
子爵家の息子である主人公の秀麿は、国史を一生の仕事として研究するつもりでいましたが、どうも、神話というものを歴史とは別にしておかなければならない必要に迫られて、すぐには研究に手をつけられないでいます。
何故神話を別にしなければならないかというと、長い歴史の積み重ねの結果、神話に書かれていることは現実には起こってはいないということがよく分かるからであり、そういうものを、国の歴史とごちゃまぜにして記述する訳にはいかないからです。
しかし、精神的倫理的役割を果たしてきた神話を、一概に「嘘だ」と言って切り捨ててしまうというのは、危険思想であるという非難を免れないだろうと考えた秀麿は、国史と神話の折り合いをどうつけるかということに悩んでいます。
そこで、さらに考を進めた秀麿は、しかし世の中で一番正確とされている数学においても、点だの線だのというものは厳密には存在せず、ただ、点と線が存在しないままでは幾何学が成り立たないから、あたかも点と線がある「かのように」扱っていることに気づきます。それは自然科学の分野でも精神の方面でも同じことであり、厳密に言えば存在しない物質や元子、自由や義務といったものを、あたかも存在する「かのように」扱っている訳です。
こうして見ていくと、宗教でもなんでも、あらゆるものの根本に、土台として「かのように」が横たわっているのだ、ということに気づいた秀麿は、「かのように」の前に頭をかがめるという姿勢をもって、国史と神話の折り合いもつけられるし、危険思想としてのそしりを受けることもなくなるはずだと考えて、この思いを友人に打ち明けるのですが、友人の反応はあまり良いものとは言えず、未だ国史研究には手をつけられないまま・・・といったような形でこの話は終わります。
これは秀麿という主人公を通して鷗外の思想を表していると思うのですが、評論家の加藤周一さんは、この「かのように」について、
であると述べたうえで、
『鷗外は、世間に行われている価値を、あたかもそれが動かすことのできない価値である「かのように」、尊敬して暮らしてゆくほかに、さしあたり生き方はなかろう、と結論した。その結論には、私は賛成できない。』*2
と評しています。
価値について相対主義であることは素晴らしい姿勢だとは思いますが、私は、加藤周一さんの見解に触れたとき、
「おや?」
と思わざるを得ませんでした。というのも、鷗外がどこかで、
「世間に行われている価値というのは動かすことの出来ないものだ」
と発言していたならば、私の反論が間違っていることになりますが、『かのように』という短編を読む限りは、
「世間で行われている価値が本当に価値があるのか、はたまたそうではないのか」
ということについては全く言及されていないのです。
そうではなくて、どんなものもその根本に迫れば、何も無いところにあたかも何かがある「かのように」扱っているという土台があって、その土台を外してしまったら全てのものがダメになるから、「かのように」を尊敬しなければならないという話をしているのであって、加藤さんが言っている「価値」ということに寄せていけば、秀麿ないしは鷗外が言っているのは、「価値」なんてものは現実には存在しないけれども、「価値」というものがある「かのように」扱わなければ仕方がないということなのです。
ですから、この短編の中で言われているのは、加藤さんが言うような、
「世間で行われている価値」対「世間で行われていない価値」
というような価値対立の話ではなくて、
『そもそも「価値」なんていうものは存在しないというところから、「かのように」を土台として、「価値」を出現させねばならない』
という、いわば「無から有」の話なのです。その話に対して、価値相対の側面から批判を加えるのは論点がずれていると思うのですが、どうでしょうか。