どこかのラジオで、養老孟司さんが興味深い話をしていた。話の内容は大体、
「人間はとにかく自分を特別扱いする。それは誰であってもそう。例えば、唾なんかが自分の中にあるときは汚いとも何とも思わないのに、ひとたび自分の外に出されるとやたらに気持ち悪がる。それだけ、自分という枠を特別扱いしている。それで、普段から何もしなくても既にそれだけの特別扱いを自分に対してしているのだから、意識ぐらいは外に向けたら良い」
というようなものだった(一字一句正確ではありません。ニュアンスで伝えていることをご容赦ください)。
また、
「自分が死んでも自分は困らない。困るのは他人なんだから、他人の為に自分の命があるとも言える」
と言われていた。
なるほど確かに、言われていることは興味深いし、仰っている通りだと思わされる部分も大いにある。ただ私は、
「意識が自分にばかり向いてくる」
のは理の必然だというような気がしてならないのである。つまり、意識を外に向けたらと言うけれども、私という存在について考えれば考えるほど、意識は自ずと自分に向かわざるを得ないだろうというように思うのだ。
例えば、他人は皆、私からは全体が見えているのに、私は私の顔を見ることが出来ない。また、他人が何を知覚し、どんな感情を覚えたかを私の肌で感じることは出来ない(思いを馳せることは出来る)が、私がどんな感情を覚えたのかは、私の肌で分かる。それに、どんなにか親しくしていた他人が死んだとしても私の人生は続くが、私が死んだら私の人生は続かない。
これらのことを考えていると、他人に対しての関心が失せる訳ではないが、一番の関心はどうしても自分自身に集まってきてしまう。
自身の命は他人の為にこそある・・・。確かにそうかもしれない・・・。でも、その他人がいなくなっても私の人生は続くではないか。他人の為だったはずの私の命が、他人を失っても続くとはどういうことだろう。はてやはり私の命は、私の為にあるのではないかという思いが、そういうことを考えているとどうしても強くなる。
自意識の過剰というのは、大抵良い意味では使われないと思う。だが、「私」というものの不思議、特殊性に触れれば触れるほど、自身に対する意識が過剰になっていくのは自然なことではないだろうか。