「幸せになる、なりたい」
であるとか、
「これがあれば幸せ」
というような話を聞くと、私は違和感を感じるのだということは、
いやそれって嘘じゃん? - そうだろうね、いやどうでしょうの中で書いたことにも通じていまして、というのも、「幸福」というのは主に心の状態に拠るところが大きいと考えているからなんです。
これをやれば、これがあれば幸せになれると思ってせっせとその状況を創り上げて、一見満たされたように思えても、心が沈んでいれば「不幸せ」ではないかと思うんです。
ですから、何か、絶対に幸せになれるものがあると信じて、物質的なものをかき集めても、精神状態が宜しくなければその活動は徒労に終わるのではないかと考えています。
そして、たとい精神状態が整っていたとしても、「幸福」というのは、恒常的に現れ出てくるものではなく、むしろ一時的にしか現れ出てこない状態のことを言うんだと思います。
この考えに基づいて、私なりに一応、「幸福」の定義をしてみますと、
「幸福とは、根源的虚無および絶望を一時的に忘れた状態のこと」
というものになります。
仮にこれを正常・異常という言葉に当てはめるならば、虚無および絶望が「正常」で、幸福状態というのが「異常」というようになります。「幸福」というのは一時的な異常現象、いわば虚無および絶望をごまかしている状態とも言えます。
よく、幸せな気分にあるときのことを、「浮かれている」などと言いますね。この言葉は上手く本質を表現しているなあと感じているのですが、つまりは、根源的な部分から「浮いている」のが「幸福」なんだということを表しているのだと思うのです。人間は、地に足をつけなければならないから、ずっと浮いている訳にはいかない。ただ、わずかの間だけは浮いている。そういう一時的状態こそ「幸福」なんだということを、「浮かれている」と表現した人は、良く知っていたのではないかと思っています。
ですが、この「ごまかし」というのは、それなりに無くてはならないものでもあります。何故なら、人間は24時間延々と虚無および絶望に向き合うことはできないからです。もし向き合ったならば、発狂するのではないでしょうか。発狂してしまわないためにも、「幸福」という一時的な「ごまかし」は重要です。
ただ、一時的な「ごまかし」というのが「幸福」であるのだということには自覚的でなければなりません。もし自覚せずに、「幸福」状態こそ本来あるべき状態だと考えてしまえば、その後必然的に根源的な虚無に連れ戻されたとき、こんなはずではないと、必要以上に絶望し、必要以上にうろたえることとなってしまいます。