贈与と感謝

 『○○ちゃん、○○さんに「ありがとう」は?』

 『○○さん、ありがとう』

 自分の子どもが、誰かからプレゼントをもらう。子どもは何も言わずにしばらくプレゼントを見つめている。親が慌てて子どもにお礼を促す・・・。

 こういった、上の会話のような光景はよく見られますね。特に、子どもが小さい場合など、こういうことはよくあります。 今更、幼少時代の記憶を呼び戻すことは難しいですが、おそらく、小さい子どもは、感謝もしないような最低なヤツ、という訳ではなく(笑)、ただ単に「社交辞令」というものを知らないだけだと思います。「ありがとう」というのは言ってしまえば「感情の発露」な訳ですから、本来は心で思っていなければ出てこない訳です。それを「ありがとう」と思っていてもいなくても言わなきゃいけないよ、と教育していくんですから、子どもの方が本能に正直と言えるかもしれません(別に社交辞令がなくても良いという訳ではありません 笑 あった方が良いです)。

 このとき、プレゼントを渡した方はと言えば、

「いえいえ、どういたしまして」

であるとか、

「いえいえ、こちらが渡したくて渡したものですから」

と応えて、この場は一応円満に解決する訳です。

 何かの舞台の役のように、贈与者は贈与者に、受贈者は受贈者に固定される訳ではなく、ほとんど全ての人がどちらの役割も経験する訳ですから(小さい子どもでも、プレゼント交換などをすることがありますね)、何かを受け取ったときの「ありがとう」が、とりあえずの建前であることは知っているし(もちろんそこから本当の感謝になっていく場合も多々ありますが)、贈与というのは、本当に自分がしたいからしているだけの、自己満足的な行為であるということも良く知っているはずです。

 それなのに、この「贈与と受贈」の「建前と本質的関係」を平気で破る人間がいる。それは、

「与えてやったんだから、感謝しろ」

というような言い方で現れてきます。贈与が自己満足的行為であるということは棚に上げて、さらに相手の感謝も要求するなんていうのは「贈与と受贈」の何たるかを解さない最低な行為です。これをやられた受贈者は反発を感じます。何故なら、受贈者の方でも、贈与が自己満足的要素を多分に含んでいるということは、よくよく心得ているからです。口に出さないまでも、

「あなたがやりたくてやったんだろ」

という怒りが沸々と湧き上がってきます。

 

 そして、こういった類のもので私が一番嫌いなのは、

「育ててやった、養ってやった、いろいろ世話して準備してやった」

というヤツです。親が子供に言う言葉ですね。お前たちにいろいろ与えてやっただろ?とでも言いたいのでしょう。この後、言葉にするしないに関わらず、親が思っていることは、

「だから、感謝しろよ?」

ということです。「贈与」が何かを解さない典型ですね。これには当然子どもは反抗します(何故反抗したくなるか分からない親は馬鹿です)。

「育てたり、養ったりしたくないのにイヤイヤやっていたのか?そうじゃないだろ。自己が望んでやったことだろ? 恩を着せるなよ! それとも何か、誕生は望んでいなかったのか?」

という怒りが一気にこみあげてきます。贈与の自己満足的な部分を棚に上げているということが、もうこれでもかというほど、子どもには分かります。

 「親に感謝しなければ」

というのは、親が、何の見返りもなしに育ててくれた後、子どもが大人になる過程の中のどこかで、自然に湧いて出てくる思いです。

 親や他人が、子どもに向かっていうセリフではありません。後々の自発すべき感情を「贈与者」から強要してしまっては、私みたいな怒り狂った若者しか生みません。