昔(今でもやってるかもしれませんが)、「NO BORDER」と題したカップヌードルのCMがありました。Mr.Childrenの曲に乗せて、おそらく「国境など無い」というようなメッセージを込めていたCMであったように思い返していますが(違っていたら申し訳ない)、それを見た当時の私は、
「美しい、理想を謳った良いCMだな。」
というような捉え方をしていました。が、しかし、今になってよくよく考えてみると、どうもそういうようなことばかり言っている訳にはいかないなと思い始めているんです。
というのも、
「国境だとか人種だとかの境界線を全部取り払ってしまうと、差別ってひょっとして深まるんじゃなかろうか?」
なんていう疑問が一つ、頭に浮かんでしまっているからなんです。
何故、そんなことを思うに到ったかというと、昨今「移民」の問題や、「グローバル化」の話なんかが盛んであるということに端を発しているのですが、
「同じ人間なんだから人種や国境なんてない」
という主張自体はよくわかるんです。素晴らしいと思います。しかし、いざ、
「じゃあ明日から、この世界は誰がどこに住んでも良い。完全にシャッフルだ。日本にもありとあらゆる国の人達が移住してくる。」
と言われたら、
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。」
と、抵抗する気持ちが頭をもたげてきてしまうんですね。「NO BORDER」は「理屈」としてはよく分かるんですが、「感情」の方が、悲しいかな「NO」と言ってしまうんです。
では何故「NO」だと言ってしまうのか。「NO BORDER」は理想的なはずなのに。これは談志師匠が言っていたことにも通ずるんですが、人間は何者でもない、ただただ存在しているだけであるからこそ、何者かであることができる帰属先を欲し、そこを失うことに非常に恐怖を感じる生物なのではないか。つまりこの場合、私は「日本という国に属する日本人である。」というのを「NO BORDER」によって取り払われることを恐れたのではないかという想像が一応つけられるのです。
「いやいや、取り払われたとしてもあなたは地球人の一員ではないか。」
と言われても、地球という単位は、帰属意識を感じるためにしてはあまりにも大きすぎるのです。
帰属意識を感じられる大きさの限度というのは「国」なのではないか。だから「NO BORDER」で持って国境を取り払われることにはどうしても抵抗感があるのだと思います。
こういった話の繋がりで思い出すのは、いわゆる「日本人の活躍話」です。例えば、錦織圭やイチローも、言ってみれば赤の他人です。でも、活躍するとなんとなく嬉しい。全然関係ないのにも関わらずです。
これは「日本に対する帰属意識」が自分にあればこそのことであって、全く帰属意識が無ければ「日本人テニスプレイヤー」「日本人メジャーリーガー」にあえて着目する理由もないですから。
これだけ国の数がある、それに伴って国境があるというのは、人間の「無理やりにでも帰属意識を持ちたい」「疑似安定を作りたい」という気持ちの表れでもあると思うんです。つまり完全な「NO BORDER」を望んでいる人は極めて少ないんじゃないか。
そこへきて、
「同じ人間なんだからノーボーダーで行きましょう。」
と言って、境界線を取り払ってしまえば、疑似安定が奪われて人間は不安になると思うんです。不安になるとどうするかと言えば、新たな疑似安定を探します。さて何を疑似安定にしようと考えたとき、境界線という「壁」は取り払われていますから、全ての人が一つ屋根の下にいる「同居人」な訳です。ならばこの「同居人」の中に差異を見出して疑似安定するよりほかない。 こうなると、今まで「壁」があったおかげで見えてこなかった「同居人」の粗が嫌というほど良く見えてくる。また、自分たちは自分たちで差異を見出して疑似安定したい。すると、差別意識が強くなってくるのではないかと私は思うんです。
「壁」のあったころより、「壁」がなくなってからの方が、疑似安定の必要性が高まったり、他人の粗が見えやすくなったりなどという理由によって、差別が強くなっていくような気がしてなりません。
そうなってくると実は「NO BORDER」は理想形ではないのかもしれません。
あんまり喧嘩したり、揉めたりしないように、境界線という「壁」、つまりは国境を設けているというのは一つの知恵のような気がします。
「壁」を持っていながらでも、壁の外の人達ともコミュニケーションをとることは可能ですからね。